初めてインタビューをしたのは、ルーキーイヤーの18シーズンのことだった。
翌年の夏にもインタビューをしたし、20年には本人たっての希望で実現した長澤和輝との対談を仕切ったこともある。
もちろん、練習後や試合後にも話を聞いてきた。
だから、普段はムードメーカーながら、取材になると緊張してときに口籠もり、ときに熱い言葉を口にする青年だということは分かっていた。
それでもその言葉を聞いたとき、ゾクッとせずにはいられなかった。
浦和レッズに復帰するうえでの覚悟を尋ねると、荻原拓也はきっぱりとこう言ったのだ。
「新加入選手記者会見やそのあとのYouTubeの配信では『復帰しました』とか、『ただいま』と言ったんですけど、完全移籍のつもりで来ました。レンタルバックだけど、完全移籍で加入したと思ってもらえたら、僕の覚悟は理解してもらえるかなと思います」
中学時代からレッズの育成組織で過ごし、トップ昇格を果たした荻原が大好きなクラブを離れる決断を下したのはプロ3年目、20年夏のことだった。
J2リーグのアルビレックス新潟に期限付き移籍を果たすと、21シーズンは同じく期限付き移籍をした京都サンガF.C.でJ1リーグ昇格の立役者となる。22シーズンも京都に残り、初めてシーズンを通して主力としてJ1を戦った。
レッズのフットボール本部としては、実戦経験を積み、逞しくなって戻ってきてほしい、という気持ちだったことだろう。
しかし、荻原はそんな甘い気持ちでレッズを離れたわけではなかった。
「もちろん、結果を残さなければ浦和に戻れないことは分かっていましたし、将来の日本代表とか、自分が思い描くキャリアを辿るためには、ここ数年が勝負だと思って浦和を出た。
正直、悔しかったですね、浦和では構想外のような状態だったので。だから、新潟や京都では相当な気持ちで、僕はサッカーをしました」
初めてプレーしたJ2の舞台は、想像以上に難しかった。新潟も京都もJ1昇格を狙うチームである。J2の上位チームのレベルは、J1の下位チームのレベルと変わらない――それが、荻原のリアルな肌感覚だった。
「J2はサッカー全体の展開も速いし、アバウトな感じのサッカーも多いし、めちゃくちゃ守ってくるチームもある。J1のほうがどのチームも戦い方がしっかりしているから、やりやすかったくらいです」
新潟時代には現在、FC東京の指揮を執るアルベル プッチ オルトネダ監督のもとでプレーした。この2シーズン、レッズを率いたリカルド ロドリゲス監督と同じく、ポジショナルプレーの概念をベースに攻守両面で主導権を握ろうとするスタイルに触れ、プレーの幅が広がった。
「ボールを握るスタイルのなかでの状況判断やポジショニング、プレーの選択など、勉強になることはたくさんありましたね」
新潟での半年が終わり、まだまだ外で経験を積むべきだと考えていた荻原に声をかけてくれたのが、京都の曺貴裁監督だった。
20シーズン終了後、オンラインで面談をして、すぐに京都入りを決めた。
「この人のもとでやれば成長できる。そう、ビビッと感じて決断しました」
実際に2年間、一緒に戦ってみて、どのような日々を過ごしたのだろうか。
「それを言葉にするのはすごく難しいですね……。曺さんは常にパッションを持っていて、選手以上にチームのことを一番に考えて、選手を成長させたいっていう気持ちを前面に出して一緒に戦ってくれる人。
この2年間、曺さんと一緒に仕事ができて、僕自身すごく突き詰めてサッカーに取り組んだし、メンタルと言ったらアバウトになってしまいますけど、『チームを勝たせたい』という気持ちがすごく強くなりました。一番はそこですね」
レッズに所属していた頃は、試合への出場と自身の成長にフォーカスし、チームのことを考えるだけの余裕がなかった。
だが、京都では21シーズンにJ1昇格争いに身を置き、22シーズンは苦しみながらもJ1残留を掴み取った。
勝てば天国、負ければ地獄――。
そんなシビアな2シーズンを主力として戦い、自ずと責任感が増し、目線は自身よりチームに向くようになった。
「京都での2年間、J1昇格争い、J1残留争いとJ1参入プレーオフという痺れる経験をさせてもらったなかで、チームを勝たせることしか考えていなかったですね。曺さんからも『チームを勝たせろ』と言われていましたから。
特にプレーオフは緊張感がすごくあった。ずっと中位にいたのに最後の最後で残留争いに引きずりこまれて、気持ちが追いつかないままプレーオフに行ってしまって。でも、この若さであの試合を戦えたこと、残留を勝ち取れたことは本当にいい経験でした」
プレー面に関して言えば、攻撃参加のタイミングや得意の左足の精度に磨きがかかった印象だ。
21年7月の新潟戦では、絶妙なタイミングで左サイドを駆け上がり、ピーター ウタカのパスを受け、左足で逆サイドネットに突き刺した。
同じく21年9月の栃木SC戦では、巧みにピッチ中央に潜りこみ、ピーター ウタカとのパス交換からコントロールショットを決めてみせた。
戦いの舞台をJ1に移してからも印象的なゴールが生まれている。
22年4月の柏レイソル戦で、京都は自陣ゴール前から12本のパスを繋いで鮮やかなゴールを奪ってみせた。
「まるでバルサやシティのようだ」と海外でも話題になったこのゴールを決めたのも、左サイドバックの荻原だった。
もっとも荻原自身は、攻撃面に関して手応えを掴んだというわけではない。
「攻撃は警戒もされたし、うまくいかないことも多々あって。自分では守備がすごく成長したと感じています。曺さんからも『一番は守備だよ』と言われていたので、かなり守備を意識した。
それも、ボールを奪いに行かない守備じゃなくて、奪いに行く守備。そこに価値があって、奪うためのポジショニングだったり、ぎりぎりの駆け引き、奪い取る力は身につけられたと思います」
2年半に渡る武者修行で自身の成長をたしかに感じ、京都のJ1残留に貢献したあと、荻原は心震えるふたつの言葉をかけられた。
ひとつは、レッズの土田尚史スポーツダイレクターから。
「土田さんから、『帰ってきてほしい』と言ってもらって。自分が必要だという強い意思を感じて、本当に嬉しかったし、気持ちが高ぶりました。浦和でやるしかない。戻るタイミングが来たと思えました」
もうひとつは、曺貴裁監督から。
「『レンタルだけど、レンタルじゃなかった。誰よりも京都のことを思って戦ってくれて、ありがとう。期限付き移籍の選手のあるべき姿を示してくれた』と言われて。その言葉も本当に嬉しかった」
こうして荻原は2年半ぶりに再び赤のユニフォームをまとう決意を固めたのだった。
ルーキーイヤーだった18年3月のYBCルヴァンカップの名古屋グランパス戦。スタメンでプロデビューを飾った荻原は、2ゴールの離れ技をやってのけた。
だが、個人的に印象に残っているのは、同じ敵地の名古屋戦でも翌19年5月の一戦である。
59分からピッチに立つと、全力でボールを取りに行き、ボールを奪えば積極的に勝負した。倒されても立ち上がり、再びボールを追った。
この試合が荻原にとって、このシーズンの初出場。それまではベンチに入れないどころか、紅白戦にも絡めず、練習場の隅っこでボール回しをすることもあった。
ようやく巡ってきたチャンスをチームの勝利に繋げたいという気持ちが、痛いほど伝わってきた。
だが、0-2と敗れると、荻原はピッチ上で溢れ出る感情を止められなかった。
試合翌日、大原サッカー場で荻原は、そのときの思いをこう打ち明けた。
「サポーターを見たとき、ぐわっと来て……。あんまり泣いたことないんですよ。たぶん、いろいろな感情があったんだと思います。今まで試合に出られなかったし……。
自分のプレーに関しては手応えがあった。戦えていたし、やれるんだというところは見せられたと思う。でも、勝てなかったから悔しい」
この闘志、この熱さ――。
これこそ、荻原拓也というプレーヤーの真骨頂だった。
4年前の話を持ち出すと、彼は頷いて言葉を紡いだ。
「今の浦和には熱量がもっと必要だと思って僕は帰ってきたし、浦和のファン・サポーターが求めているのも、そこだと思う。もちろん、勝利やタイトルが求められているけれど、前提として、熱量や闘う姿勢がなければ、勝てないので」
レッズの育成組織出身として荻原の先輩にあたる関根貴大に「浦和レッズらしさとは何か」とかつて聞いたことがある。すると関根は迷わず、こう答えた。
「闘うことだと思うんですよ。ユース出身の選手はそこをまず叩き込まれるので。(原口)元気くんもそういうタイプだし、僕もそう」
だが、近年はレッズのサッカーを体現してきたベテランが去った影響もあり、確固たるスタイルが築かれつつある一方で、伝統として大事にしてきたものが抜け落ちてしまっているのかもしれない。
荻原は期限付き移籍中も、浦和の試合をチェックしていたという。
「いいサッカーをしていたと思います。でも、誤解を恐れずに言えば、僕は正直、見ていて気持ちが踊らなかった。でも、そのチームで自分は構想外だったから外でプレーしている。そんな状況も、悔しかったですね」
さらに「気持ちは誰よりも強いですよ」と言った荻原は、こう続けた。
「この2年間、笛が鳴った瞬間から全力でプレーして、足が攣っても戦って。強度の高いプレーをすることに本当にこだわってやってきた。体力面でもJ1で90分プレーできるようになったし、存在感を出せるようにもなった。
人の心を動かすようなプレーをしないと選手としての意味がないと思っているし、ファン・サポーターの心を動かすようなプレーを見せなければ、スタジアムに足を運んでもらえないと思っているので」
荻原拓也はなぜ、レッズに戻ってきたのか――。
答えは明白だ。
レッズを勝たせるために、戻ってきた。
それができる自信を身につけたから、戻ってきた。
そして、23歳はさらに先まで見据えている。
「浦和で主力として活躍してチームを勝たせる。このチームでずっと試合に出ていいパフォーマンスを続ければ、自然と日本代表にも選ばれるようになる。そこも意識しますね。僕はけっこう現実を見るし、自分を過小評価する性格なんですけど、代表を目指すことをようやく公言できるレベルになったと思うし、周りからもそう言われることが増えました。
前に浦和にいたときは正直、気持ちと勢いだけだった。京都で守備を磨いたから、浦和ではそのベースの上に攻撃を積み上げて、目に見える結果を残したい。ポジションは、左サイドバック。代表に入ることを考えたら、そこしかないと思っています」
目の前には、熱いハートはそのままに、2年半前よりも明らかに大人になった青年がいた。
(取材・文/飯尾篤史)