心震えた埼玉スタジアムの記憶が色あせることはない。
コロナ禍の影響下にあった2021年の秋。熱い手拍子が鳴り響くなか、ガンバ大阪でプレーしていた佐藤瑶大は大きな仕事を果たした。
1点を追う後半のアディショナルタイム、パワープレーで持ち味を発揮する。前線に上がっていた大卒1年目のセンターバックは浦和レッズのアレクサンダー ショルツに競り負けず、ゴール前で好機を演出。空中戦のこぼれ球を拾った味方がPKを誘発し、土壇場で追いついたのだ。レッズからすれば、痛恨のドロー劇だった。
当時、G大阪のスターティングメンバーに名を連ねていた佐藤には、表立ってずっと言えなかったことがある。あれから2年半――。入場したときの情景をしみじみと思い返す。
「埼スタでアンセムが流れたとき、ひとり鳥肌が立っていたと思います。幼い頃から聞いてきたので……。ガンバの選手として試合に集中していましたが、ちょっと感慨深かったですね。いまだから話せることです」
スタジアムに流れる曲を初めて耳にしたのは20年近く前。まだ物心つかない3歳、4歳の頃である。
東京都国立市で生まれ育ったが、父親は根っからのレッズファン。聖地『駒場』をメインで使用していた時代からゴール裏で応援し、1999年のJ2降格も現地で目撃しているという。
週末になると、ハンドルを握る父は抜け道をすいすい進み、家族全員を埼玉スタジアムまで連れて行ってくれた。会場近くの混雜しない駐車場まで把握するほどの常連である。
佐藤はプロ入り後、幼少期から応援してきたクラブについて語ることはほとんどなかったが、いまなら存分に話せるという。ポンテのユニフォームを着て、浦和美園に通っていた話に花を咲かせる。
「スタジアムでもらうレッズの選手カードを集めていたんです。Jリーグチップスのカードも好きで、エメルソンの“超絶キラキラ”が出たときはすごくうれしくて。カードファイルは、僕の宝物でした。まだ実家に保管してあります」
年齢を重ねても、レッズへの思いは変わらなかった。18年12月9日、真冬の埼玉スタジアムまで足を運んだこともよく覚えている。12大会ぶりの天皇杯制覇を見届けたのは、明治大学時代の良い思い出だ。
あのとき、決勝ゴールを奪った宇賀神友弥をはじめ、優勝メンバーの西川周作、興梠慎三らといまはチームメイト。当たり前のように大原サッカー場で一緒に汗を流しているが、あらためて思う。
「やっぱり、リーグ上位を争うレッズは、選手みんなの質が高いなと」
今季、センターバックのポジションを争うのは、2023シーズンのJリーグベストイレブンのふたり。ショルツ、マリウス ホイブラーテンから定位置を奪取するのは、並大抵ではない。試合に出場してこそ評価されるのがプロサッカー選手。それでも、佐藤には信条がある。
「厳しい環境に飛び込んで、乗り越えていくのが僕の生き方。周囲から『難しい』と言われることを成し遂げたいんです。無理と言われれば、余計にそう思います。僕はその挑戦権を得ることができたので、チャレンジしたいなって。
このチャンスを逃せば、次はいつ巡ってくるか分かりません。ガンバでスタメンを取り切れたかと言えば、そうではないのですが、安パイ(安全牌)の選択をしたくなかった。後悔はしたくないので」
あえて選んだ茨の道。沖縄キャンプでも、さっそく多くの課題が見つかった。自らのプレーを思い返し、映像で再確認。チームに求められるビルドアップに苦慮し、試行錯誤を繰り返している。
改善点を上げれば切りがない。止める、蹴るといった技術面の向上に加えて、視野を広げることもそのひとつ。周囲の助言に耳を傾けつつも、芯はブレないようにしている。
「周りの意見をそのまま受け入れるのではなく、自分でどう変換するかが大事なのかなと。僕の場合、あまりに聞き過ぎると、自分のプレーを出せなくなるので。
最終的に僕が判断してミスをすれば、すべて自分のせいにできます。自分に矢印を向けるためにも、大切にしていることです」
まだ確かな手応えはつかめていないが、焦りはない。ライバルのプレーを近くで見ることで、あらたな気づきもある。相手の正面に向かっていくショルツの運ぶドリブル、想像以上に速いモーションで蹴るマリウスのロングパスは参考になるという。そのままコピーするのではなく、自分の中にうまく取り入れて、トライしている。
「僕はまだできないことだらけ。でも、それらはすべて伸びしろだと思っています」
壁を越えていくイメージはできている。年始には必ずルーズリーフに黒ペンで目標を大きく書き、部屋の目につく場所に貼っている。
「来年までに達成したいことを書くんです。“なりたい自分”から逆算し、いま自分は何をすべきかを考えています。そうすれば、日々の取り組みも明確になるので。これは昔から続けていることです」
『逆算思考』は、佐藤家の教えでもある。ビジネスマンの父は、昔から息子を子ども扱いすることはなかったという。文武ともに目標達成のために行動計画を立てさせ、いまやるべきことは何かを問うてきた。
「仕事のできる父は、社会に出ても通用する人間を育てるために教育してくれたんだと思います。頭ごなしに叱ることはなく、『お前の目標は何なんだ? それを達成するためにいま何をすべきなんだ』って。いつもこんな感じで言われるから、反抗したこともなかったです。気づけば、自然とサッカーにも置き換えて考えられるようになりました」
子どもを決して甘やかすことのなかった父も、誕生日カードには毎年、いつも同じひと言を添えてくれた。
『やりたいことをずっとやりなさい』
素っ気ない言葉に思えた時期もあったが、すべてはつながってくる。
「いま考えれば、深いメッセージですよね。世の中にやりたいことを職業にできる人がどれだけいるのかなって」
名門の明治大学からプロサッカー選手になったあとも、息子に対する父親の接し方は変わらない。目の前の現実を直視し、厳しい言葉を投げかけられる。試合で悪いプレーを見せれば、それこそ遠慮はない。
「『こんなじゃ、プロで食っていけないぞ』と。そのとおりだったので、胸にぐさっと刺さりました。ガンバ時代に試合に出られなかった時期にも『いまの時間を無駄にするな。自分に厳しくなれ。たとえ戦力外になっても、いま自分にできることがあるはずだ』って。
僕自身も感じていたことだったんです。あの言葉でさらに意志が固くなり、その後、出場機会を得ることもできました」
陰で身近な存在に支えられ、常に己と向き合いながら苦難を乗り越えてきた。そして、プロ4年目でたどり着いた憧れのクラブ。尊敬する父も特別な思いを抱いているはずだが、喜びを顔に出すことはない。
「きっと現実を見ているんだと思います。僕が試合に出られるのか、どうかを心配している気がします」
ただ、スタメン出場の機会をつかむのは、“なりたい自分“への過程。
「僕は『浦和の漢』になりたいんです。いまはそこから逆算し、取り組んでいます」
先発メンバーのひとりとして名前をアナウンスされ、赤いユニフォームを着て入場する――。佐藤はレッズのアンセムに思いを馳せると、幸せそうな笑みを浮かべていた。
(取材・文/杉園昌之)