「なんて表現すればいいんだろう。どこかゾワッとするというか、フワッとするというか。こう、帰ってきたなぁって」
「ちょこちょこ、そのときどきの感情や自分が見た景色とか、覚えておいたほうがいいことや覚えておきたいことはメモします。だから、大原に戻ってきたこの感情も忘れないようにと思って」
「3年前に浦和レッズを去るとき、(退団セレモニーで)『GMになって戻ってきます』と挨拶したように、僕の心の中にはずっと浦和レッズがあった。35歳になりましたけど、僕の人生の半分が浦和レッズですから。何をしても切り離すことができない存在。
「戸苅さんには、引退後の自分の人生プランを相談することもありましたし、堀之内さんには海外でチームの強化について学びたいと思って、語学について相談したこともありました」
「実は今シーズンが終わったとき、自分は引退するか、FC岐阜でもう1回頑張るかどうかで、ずっと悩んでいた。J3で2シーズンを戦って、チームをJ2に昇格させることができなかった。自分の実力は、そこまでだったんだなと、正直、思っている自分もいて。ならば、選手を引退して、違う角度からFC岐阜をJ2に昇格させるために力を使ったほうがいいんじゃないかと。
「昨シーズンもFC岐阜で34試合に出場して、出場した試合はフル出場と、自分の身体は元気だった。まだまだ自分が動けることを実感していたし、それを考えると、心の葛藤もあって、自分の中で、なかなか決断できない時間を過ごしていたんです」
「浦和レッズから『戻ってこい』という話をもらったとき、心の火がもう一度、ブワッと燃えるのが自分自身でも分かった。本当にもう、ブワッって感じ。めちゃくちゃ一瞬で燃え上がりましたね」
「即断即決でした。このクラブに帰って来られるのならば、帰ってきたかった。誤解を怖れずに話すと、浦和レッズからFC岐阜に移籍し、カテゴリーもJ1からJ3へと変わり、いろいろなところに差を感じた。選手個々の力も、試合のレベルも。自分はもちろんその中でも100%の準備をして、100%の気持ちで臨んでいましたけど、やっぱり僕は浦和レッズの虜だし、浦和レッズの中毒。埼玉スタジアムのファン・サポーターが作り出してくれる雰囲気に代えられるものは何もなかった。
「大原サッカー場で再会したとき、周ちゃん(西川周作)は、あのいつものスマイルで『おかえり』と言ってくれて。『違和感、全然ないね』って言いながら『帰ってきてくれてうれしい』という言葉をくれました。
「自分は昨シーズンが終わってから自主トレしかしていなかったので、(FIFA)クラブワールドカップを闘うチームを見ていて、正直、この差を埋められるのかと、ずっと思っていた。始動日が近づくにつれて、大丈夫かなとか、スピード感や技術のレベルに付いていけるのかなって。やれる自信はあっても、実際はどうなんだろうかと、ちょっと怖い自分もいて」
「でも、楽しい、楽しかった。めちゃくちゃ楽しかったんです。みんなうまいし、練習しながら楽しくてニヤけてました」
「今季のメンバーを見ると、誰が試合に出てもすごいパフォーマンスが出せる選手がそろっていると思います。きっと監督もチームマネジメントがすごく難しいんだろうなと。そうした部分を、言葉だけでなく、日ごろの練習の雰囲気も含めて作っていくのも自分の役割だと思う。
「このメンバーの中で自分が試合に出ることができたら、どんな景色が待っているのか。どんな自分が待っているのか。この年齢で帰ってきて、J3からJ1に駆け上がって、試合に出場できたら、どれだけすごい自分が見えるのだろうって、楽しみしかないですね」
「やっぱり浦和レッズってすごいんだなって思ったんです。外に出てより感じる。浦和を背負う責任という言葉の重みも。ACL(AFCチャンピオンズリーグ)決勝での応援の熱、チームがクラブワールドカップに向けて大原サッカー場を出発するときのファン・サポーターの熱量。
「浦和レッズがすべてにおいて、いかに恵まれているかも知りました。でも、恵まれていることを『恵まれている』で終わらせてはいけない。その思いをピッチで表現してこそ。松尾(佑介)選手が新体制発表記者会見で言っていましたよね。『言葉じゃないよ』『見てくれよ』って。まさにその通りだと思います」
「その光景を自分が後ろから見ている夢を見たんです。起きたときに、『俺、浦和レッズに戻るんだ』って実感した。しかも、そのとき、なぜか背番号35を付けていたんですよね」
「あの声援を感じられると思うと、今も鳥肌が立つ。ここから、自分が見た夢が正夢になるようにしないと。何より、スタンドから試合を見るために戻ってきたわけじゃないし、ピッチのうえで、みんなと、しっかりと勝利の喜びを分かち合いたいなと思っています」
「本当のただいまは今ではない」と――。
(取材・文/原田大輔)