そのひと言が、武田英寿の2年半を物語っていた。
浦和レッズに復帰するにあたっての心境を尋ねると、22歳となった若者は「まず一番は、またこのユニフォームを着られて良かったな、っていう気持ちですね」と答えた。
「やっぱりこの2年半、絶対に浦和に戻るんだっていう気持ちで過ごしていたので」
旅立ってからというもの、シーズン終盤には必ず浦和レッズのフットボール本部と面談を重ねてきた。
夏にFC琉球へと期限付き移籍をした21シーズン終盤の面談では「もう1年経験を積んだほうがいいんじゃないか」と提案された。大宮アルディージャに期限付き移籍をした22シーズンは、先発出場が半分くらいだったため、「復帰はシーズンを通して試合に出てからだな」と告げられた。
だが、水戸ホーリーホックで主力として戦い抜いた23シーズンの面談では「どう思っている?」と投げかけられた。
「だから、僕は迷わず『自分は帰りたいし、チャレンジしたい。浦和で勝負したいです』って伝えました。『スタメンで出られるかどうか分からないぞ』って言われましたけど、それでも自分は浦和で勝負して、スタメンを取るんだっていう覚悟で戻ってきました」
武者修行の旅の間、武田は危機感でいっぱいだったという。出場機会を求めて期限付き移籍をしたものの、所属元に復帰できないケースも少なくないからだ。
「僕自身もそういう選手の姿を見てきましたし、もともと浦和に加入するときから、高卒の若い選手が簡単に試合に出られるクラブではない、ということも聞いていましたから」
半年間プレーした琉球では15試合に、大宮では31試合に出場したが、どちらもシーズン途中で監督が交代するなどチーム状態が芳しくなく、武田自身も納得のいく成長を遂げられたわけではなかった。
「なかなか難しかったですね。このままだと浦和に戻れないっていう焦りはありました。もっと自分が中心になるようなプレーをしなきゃいけないなって」
武田のプロ1、2年目に身近な先輩だった伊藤涼太郎と荻原拓也は、期限付き移籍先で中心選手として活躍していた。
「涼太郎くんは結局、浦和には戻らなかったですけどJ1(アルビレックス新潟)でも結果を残した。オギくんは京都で活躍して、復帰を掴み取った。ふたりのことは自分のモデルとして意識していましたね」
期限付き移籍3年目、背水の陣を敷く武田にとって大きかったのが、土田尚史前スポーツダイレクターに勧められたという水戸ホーリーホックとの出会いだった。
伊藤涼太郎もJ1への足がかりとしたこのクラブで、濱崎芳己監督や、浦和の選手だった西村卓朗GMから「中心選手として期待しているぞ」と声をかけられた。その言葉通りに清水エスパルスとの開幕戦から常時スタメンとして起用されていく。
「改めて自分の武器は左足だということが確認できましたし、シーズンを通して起用してもらって自信も付いた。試合に向けてのサイクルが作れたのも大きかったですね。水戸はすごく若いチームだったので、22歳の自分も中堅くらいの意識でいました。だから、責任もすごく感じて。浦和の頃は自分のことで精一杯で、結果とか、チームのことを気にする余裕がなかったので」
主力としての責任が芽生えたシーズンにおいてとりわけ貴重な経験になったのが、サイドハーフからボランチへのコンバートである。
5月17日のザスパクサツ群馬戦での配置転向によって、プレーの幅が広がっただけでなく、攻守の要としてプレーすることで勝敗の責任を背負う気持ちがさらに強まったのだ。
「守備とかボールを奪うといった、これまで苦手としていたところを克服というか、向上させられましたし、サイドハーフでなくボランチはピッチの中央でプレーすることになるので、より責任を感じるようになりましたね。自分のゲームコントロールが、自分の出来が結果を左右すると思いながらプレーしていました。
ボランチになって低い位置での組み立てを任されることが多かったから、なかなか得点数は伸ばせなかったんですけど、それでも先輩から『ミドルシュートを決められるのが、いいボランチだよ』と言われたので、ミドルも常に意識していました」
その先輩とは、ベガルタ仙台に所属する遠藤康である。ともに宮城県仙台市の出身で13歳の年齢差があるが、実家が近所で、小学生時代のサッカーチームも同じため、以前から交流があるという。
「遠藤さんが『J1で活躍しているボランチは点を取れるよね』って。そこからです、シュートの意識を強めたのは。自分が打つ、自分が決めるという強い気持ちがないと、ボランチで数字を残すのは難しいので」
終わってみれば、主力として38試合に出場し、2得点9アシストの成績を残してみせた。こうして、浦和復帰を掴み取ったのである。
武田は今、新監督が指揮するトレーニングキャンプで懸命にアピールに努めている。
沖縄は金武町でハツラツとプレーする武田の姿を見ていて思い出すのは、3年前のキャンプだ。
リカルド ロドリゲス監督を迎えて初めての沖縄トレーニングキャンプで最も輝いていたのが、高卒2年目の武田だった。
トレーニングマッチで奪ったゴールは実に5ゴール。小泉佳穂や伊藤敦樹、大久保智明、明本考浩といった新加入選手との熾烈なポジション争いにおいて、頭ひとつ抜け出したように思われた。
だから、FC東京との開幕戦で武田がベンチスタートとなったことは意外だったが、3月28日に行われた北海道コンサドーレ札幌とのエリートリーグで存在感を示すと、4月3日の鹿島アントラーズ戦でインサイドハーフとしてスタメンの座を勝ち取るのだ。
ところが、3試合連続スタメンとなった徳島ヴォルティス戦で無念の負傷退場となってしまう。
このアクシデントが、武田の命運を大きく変えた。
戦列に戻ってきた5月半ばにはメンバーも定まり、武田の入り込む余地はなかった。7月に入って、開幕を目前に控えた東京五輪のサポートメンバーに選ばれ、大きな刺激を受けたパリ五輪世代の武田は、期限付き移籍で試合経験を積む決断を下す――。
「別に言い訳にするつもりはないんですけど、あの怪我は自分のサッカー人生の中で、ひとつの分岐点なのは確かですね……」
武田が武者修行に出た2年半の間に、かつてポジションを争った伊藤敦樹は日本代表まで駆け上がり、小泉も大久保も主力選手へと成長を遂げた。
3年前、間近で取材をした身からすると、武田が彼らに劣っていた印象はまったくない。もし、あの怪我がなかったら、どこかで何かがうまく回っていたら……。
一方で、伊藤は浦和レッズユースからの、大久保は東京ヴェルディユースからのトップチーム昇格を逃し、小泉もFC東京U-15むさしからU-18へ昇格できず、前橋育英高校からのプロ入りもできなかった。挫折を経験しながら大学サッカーやJ2で飛躍を遂げ、浦和入りを掴んだ選手たちだったのに対し、武田は高校サッカー界の名門・青森山田高校で10番を背負い、高卒で浦和に加入したサッカーエリートだった。
あの負傷と、復帰後の不遇は、19歳の青年が迎えた初めての挫折だったのかもしれない。
「怪我から戻ってきたら、紅白戦にも入れないときがあって。ボール回しの組に回されて、気持ちが切れてしまったところもあった。それで、レンタルで出ようかなって。あとになって、我慢して浦和に残っていてもよかったかなって思うこともあったんです。
でも、自分はJ2へのレンタルという道を選んだ。それが正解だったと言えるように頑張りたい。年齢で言うと今年は大卒1年目と同じなので、チームの戦力として戦えるようにしたいと思います」
武田の転機となった21シーズン、武田以上に出場機会を得られていなかったのが大久保だ。しかし、黙々とアピールを続けると、夏を境にリカルド ロドリゲス監督の信頼を掴み、出場時間を増やしていった。
「トモくんは日々のトレーニングを全力でやっていたし、自分が試合に出て、トモくんは試合に出られない状況でしたけど、毎日楽しそうにやっていた。思い描いた通りじゃなかったはずですけど、先のことを見据えて過ごす姿には見習うべきところがあるなって思います。だから自分も、チームの中でどんな立ち位置だろうと、時間がかかったとしても、最終的にピッチに立てるようになれればいい」
沖縄トレーニングキャンプの序盤で武田は、本来の右ウイングや右インサイドハーフではなく、4-3-3のアンカーとして起用された。おそらくペア マティアス ヘグモ監督は水戸時代のボランチとしてのプレーを参考にしたのだろう。
アンカーは、岩尾憲や安居海渡だけでなく、スウェーデン代表のサムエル グスタフソンもポジョション争いに加わることが予想される激戦区だが、虎視眈々とポジション取りを狙っている。
「僕も『アンカーなんだ!』って、最初はびっくりしました(笑)。でも、いろんな選手と話しているうちに、インサイドハーフだけじゃなく、アンカーもできるようになったほうがいいなって。ビルドアップの安定性やゲームコントロールが求められると思うので、岩尾選手から学びながら慣れていきたい。キックのところは武器なので、そこをしっかり出していきたいと思います」
右サイドからカットインして左足を振り抜くシュートが魅力だったから、それが見られなくなりそうなのは残念だ――そう伝えると、武田は即座に返してきた。
「じゃあ、ロングフィードを見てください。自分にしかない武器、自分だからこその特徴だと思うので、それを楽しんでもらえたら嬉しいです」
そう笑顔で語った22歳の青年は、自身の2年半の成長を浦和レッズのファン・サポーターに見てもらうことが、そして、浦和レッズでさらなる成長を遂げることが楽しみで仕方ない、といった様子で目を輝かせていた。
(取材・文/飯尾篤史)