選手から指導者へと立場が代わった塩田仁史は、1年前の決断をこう振り返る。
「最終的に決め手となったのは“人”でした。(前所属先の)栃木SCもすごく大好きなクラブでした。監督、強化、社長やスタッフともすごくいい関係を築けていて、素敵なクラブでした。
でも、浦和レッズから声を掛けてもらい、いろいろと悩んだなかで、自分があと何年、選手としてプレーできるか分からないと思ったとき、自分のなかの優先順位として高かったのが“人”でした。選手として最後にやるのであれば、“この人”のもとでやりたいなって思ったことを覚えています」
塩田の言う、“この人”とはスポーツダイレクター(SD)の土田尚史のことだ。
ここまで読んでもらって申し訳ないが、時間が許されるならば、「戻る」のボタンを押してほしい。塩田にとっての“この人”にも話を聞き、記事をしたためたからだ。往復書簡のような2人のやり取りは、ぜひ、土田SDのパートから読んでもらいたい。
動物病院での偶然の出会いをきっかけに、当時は大宮アルディージャに在籍していた塩田は、浦和レッズのGKコーチだった土田と、食事に行くようになった。ただし、それはGKとしてではなく、人としての付き合いだった。
「(尚史さんが)浦和レッズのGKコーチだから、サッカーの話を聞かなければというのではなく、だいぶ年上なので失礼かもしれないですけど、先輩や友人と食事をしているような感覚でした。選手としての話になったときも『お前はやれるだけ選手としてがんばれ。俺は陰ながら応援しているから』と言ってくれていて。だから、これまで尚史さんから浦和レッズで一緒にやろうと言われたことは一度もなかったんです」
そんな土田から2021年シーズンを前に、初めて仕事の話をされた。驚くと同時に、アカデミーのスタッフとして声を掛けてくれたのだろうと思った。
だから、塩田は電話口でこう返答した。
「いや、まだ選手としてサッカーやりたいっすよ」
「何を勘違いしているんだよ。選手として、に決まってるだろ」
「それ、本当に言ってます?」
「だから、うちに来ることを考えてほしい」
振り返れば、付き合いは5年以上になっていた。
その間、指導したことのある選手が自分のもとを離れても気に懸ける土田の姿を見て、強面だが心根の優しい人だなと思っていた。
何より食事をするたびに、「浦和レッズをもっと良くしたい」「浦和レッズのために」という言葉を何度も聞いてきた。
「尚史さんは昭和の男だから(笑)、気持ちは強く、熱いのに本当に口下手なんですよね。愛情深い人だと思っていましたし、人間性に惹かれていた。その人が自分に声を掛けてくれた。こういう人と仕事をして、最後は選手を終えることができたら本望だなって」
取り繕うことのない関係性だったからこそ、綺麗ごとも言われなかった。
浦和レッズには、日本を代表するGKの1人である西川周作がいて、将来を期待されているアカデミー出身の鈴木彩艶もいる。
浦和レッズに加入する塩田の立場は2人に次ぐ3番手。土田からは、その状況をどうやって受け入れたのかという質問を預かっていたが、塩田に聞けば、彼の魅力はそこにあった。
「完全に折り合いをつけてきたかというと、つけて加入したわけじゃなかったんですよね。何かがあれば、試合に出られるチャンスはあると思って浦和レッズに来たんです。昨季は周作と彩艶と自分の3人体制でしたが、アクシデントが起きる可能性もありますし、自分できっかけをつかめばカップ戦などで試合に出るチャンスはあると思っていた。
それに、この素晴らしいGKたちと一緒にやることで、40歳になっても絶対に学びがあるし、自分の成長につながると思ったんです」
挑戦する姿勢に人間的な魅力も詰まっているのだろう。
「それに」と、塩田の言葉は続く。
「もう1回、チャレンジしたいものがあったんですよね。昨季のはじめにリカルド(ロドリゲス監督)と面談があったのですが、そこでも伝えたんです」
J1リーグのタイトルだった。FC東京時代にヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)と天皇杯の優勝を経験していたが、唯一、獲得したことのない国内タイトルがJ1だった。
浦和レッズならば、“それ”をつかむことができる。選手としての向上心、個人としての野心が40歳を迎える塩田の心を奮い立たせていた。
「だから、3番手でいいと思って来たわけじゃなかった。ずっとワンチャンあるだろうと思っていた。結果的に1年間、試合に出ることはできなかったですけど、それでもどこかでチャンスはあるだろうと思ってやっていました。そこで活躍して、結果を残して、次のチャンスもまたつかんでやろうって。
振り返れば、僕のサッカー人生はその連続でした。FC東京では、当時の日本代表選手だった土肥(洋一)さんとずっとポジション争いをしていましたし、そのあとは権田(修一)とポジションを争っていた。考えてみたら、その繰り返し。だから諦めは悪いほうだと思います」
勝利の女神には前髪しかないと言われるが、チャンスの女神の髪の毛たった1本であろうともつかんだら離さない。その姿勢が塩田を突き動かしていた。
「自分の姿勢が、チームを動かしたり、チームのメンタリティーとして伝わったりするのではないかという思いもありました。自分がプロとして18年間やってきたなかで、チームにとってベテランの存在は大きいという言葉を何度も聞いてきました。
でも、年齢を重ねているから存在が大きいわけではなかった。ただ、年を取った選手が経験、経験と言っているだけでは説得力は何もない。ベテランが若手以上に努力したり、若手以上に何かに取り組んでいるからチームに影響を与えられるんです。だから、ベテランがいるからチームが変わるのではなく、ベテランの姿勢がチームを変える。
アベちゃん(阿部勇樹)もそうですけど、練習場に早く来て準備をする、苦しいウェイトトレーニングだって若手以上にやる。それは自分のためでもあり、彼らに見せていた部分でもある。その姿勢を若手が見ているから、きっと聞く耳も持ってくれる。それができなくなるのであれば、自分はいないほうがいいと思っていましたし、浦和レッズに来てからずっと続けてきたことの一つでした」
練習はもちろんのこと、アウェイの試合に向かうチームメートを見送っていた姿勢も、見せた背中の一つだった。
「昔から一つのポジションを争うGK同士は仲が悪いとか言われますけど、ピッチのなかでバチバチすることや練習中に口を聞かないなんてことも、僕は全然、ありだと思います。でも、いざピッチを離れたときやメンバーが決まって次の試合に行くときにはその感情を持ち込まない。
子どもを教育するときに言うセリフではないですけど、自分がやられて嫌なことは相手にもしない。その姿勢は大人として、プロとして必要だと思います」
これまた勝利の神は細部に宿るとよく言うが、日々の姿勢や取り組みが、チームとしての競争意識を高め、一体感を生み出してもいく。
「その積み重ねが隙のないチームを作っていくんだと思います。だから昨季、天皇杯の決勝前には、『あっ、これは獲るな』っていう雰囲気がチームにあった。一方でルヴァンカップの準決勝のときは、まだその空気がなかった。これはあくまで感覚でしかないですけどね」
結果的に浦和レッズの選手としてピッチに立つことは叶わなかった。後悔がないと言えば、きっと嘘になるだろう。
だが、たった1年ではあるが、塩田は確かな爪跡を浦和レッズに残した。記録ではなく、記憶として。それは彼がプロサッカー選手として過ごしてきた18年という年月の証でもあった。
「ホーム最終戦の前に強化部に呼ばれて、尚史さんから話がありました。引退を決めるまで時間がなかったことを覚えています。当初は、自分のなかで、浦和レッズでプレーできるのか、他のチームになるのかは分からなかったですけど、もう1年やろうと思っていたんですよね。
でも、クラブと話していくなかで、いろいろな道を提示してくれて、それだけ浦和レッズというクラブが自分のことを評価してくれていたことに感謝しました」
短い期間ではあったが家族と話し合った。話していくなかで自分の頭を過ったのは、選手としての姿勢、気持ちだった。
「クラブにもし来年(2022年)も選手としてプレーするならば、今の立場と変わらないということは言われました。2021年も同じ状況でやってきたので、それは理解していた。でも、プロとして18年間プレーしてきて、1回も試合に出られなかったことがなかったんですよね。それが自分のなかでかなりメンタル的に堪えたのも事実でした。
今までは天皇杯初戦やカップ戦など、少ないながらもチャンスはあって、それが自分のモチベーションになっていたし、張り詰めた緊張感を保つこともできていた。
でも、来年も状況が変わらないなかで、同じことにチャレンジすることができるのかを自分に問えば、難しかった。食事も、フィットネスも、メンタルもすでに最大限の努力をしていた。2021年の自分を越えられないのであれば、やる価値はないし、超える努力ができる自信もなかったんです」
40歳を迎えるタイミングで浦和レッズへの移籍を決断した理由と同じだった。3番手や4番手を甘んじて受け入れた状況でプレーすることはできない。
前年の自分を超えられないのであれば、前年以上の努力をする自信がないのであれば、選手を続けることはできない。
塩田は、塩田だった。
「サッカーのことはあまり分からないし、サッカーのことについてあれこれ意見を言う妻ではないのですが、その思いを伝えたら、『自分がそう感じたのであれば、それでいいと思うよ』と言われました。『自分の好きにすればいいんじゃない』とまで言っていた割に、最終戦のときは泣いていましたけどね」
選手として在籍したのはわずか1年だったが、クラブも彼のキャリアに敬意を表し、挨拶の場を用意してくれていた。だが、浦和レッズというクラブに尽力した功労者を讃えてほしいと、自ら辞退し、引退のリリースも天皇杯決勝後にしてほしいとお願いした。
「プロとしては18年間プレーしてきましたけど、自分は浦和レッズに対する功績としては何も残していない。そういった意味では、功績を残した彼らに最大のリスペクトをしたいという思いがありました。親や家族には申し訳なかったなという思いもあるので、そこは心残りですけど、俺らしいサッカー人生と言えば、サッカー人生だったなって思います。
光りがあれば影もあるって言いますけど、影があるから光りもあるんですよね。僕は影だったかもしれないですけど、何よりサッカーには絶対にそうした存在が必要。光りだけでは成り立たないスポーツでもありますから。
僕は影だったかもしれないですけど、それでも誰かの希望になれていたのかもしれないと思えるというか。ベテランの必要性やベテランの姿勢。そのアンサーみたいなものをサッカー界や浦和レッズに伝えることができたのなら、よかったなと思えます」
浦和レッズとのつながりは偶然が重なった縁だったかもしれない。それでも、塩田にとっては人生を変える出会いだった。
「“この人”と思った人のもとで、最後に引退という決断ができたことはよかったなって思います。所属するチームがなかったり、ケガをしたりして引退を決めたわけではなく、自分が信頼していた人に次の道を照らしてもらった。そういう意味でもやっぱり、自分のサッカー人生は幸せだったなと思えました。
あの人は本当に口下手ですけど、あの人の考えが浦和レッズのGKのフィロソフィーなのではないかと感じることがある。それはきっと、横山謙三さんから続く、伝統とか歴史なんだと思います。それを現代版にはなるのでしょうけど、自分なりに解釈して、選手たちに伝えていければいいなと思っています」
選手時代とは異なる色のジャージを着て、GKアシスタントコーチとして日々奮闘している。「選手への伝え方」について、日々模索していると教えてくれた。
目標は言わずもがな、選手時代に唯一手にすることができなかった、あのタイトルをつかむことだ。指導者になった今も、このクラブならばそれが達成できると信じている。
(取材・文/原田大輔)