小学5年生だった2002年に、日本でFIFAワールドカップが開催された。当時のサッカー少年みんながそうだったように、彼もまたデイヴィッド ベッカムに憧れた。
Jリーグ30周年を記念して連載している「マイヒーロー」。第12回目に登場した馬渡和彰が名前を挙げたのは、しかし、金髪をなびかせていたイングランド代表MFではなく、今日の自分を築く指標となった身近な先輩たちだった。
ひとり目は中村充孝である。
「市船(市立船橋高校)時代のひとつ上の先輩でした。当時からめちゃめちゃうまくて、強い憧れを抱いていました」
馬渡は、ただ指をくわえて憧れているだけではなく、先輩である中村に近づき、日々自主練をともにした。
「チームの全体練習が終わったあと、毎日のように1時間くらい1対1をしてもらっていました。でも、そのときも数えるくらいしか、充孝くんからボールを奪うことはできなかった。
それも、ドリブルを仕掛けてきたときに、足を出してつついて、やっとボールが取れるくらい。完全に体を入れてボールを奪い取るような機会は、ほぼなかったように思います。それくらい一瞬のスピードが速くて、一緒に練習しながらも『この人、バケモノ』だなって思っていました」
中村との1対1の自主練は、馬渡にとっては宝物のような時間だった。だから、練習を終えると、サッカーノート代わりに、当時、流行っていたブログにその内容を書き込んでいた。
「1対1の感想をああでもない、こうでもないと書き込んでいたんですけど、それを充孝くんも見ていて、コメントしてくれたのが本当にうれしかった。そうやって自分のプレーに期待してくれていたのも、励みになりました」
自主練では、他の先輩や同級生も混じることがあったという。依然として、中村からはボールを奪えなかったが、他のチームメートからはボールを奪えるようになり、憧れの先輩と練習することの大きさを実感した。
「充孝くんは、高校時代から注目されていて、こういう人がプロになるんだなって思っていました。そう考えると、自分は全然、力が足りなかった。もっと頑張らなければいけないなって思っていた記憶があります」
高校卒業後、京都サンガF.C.でプロの一歩を踏み出した中村を見て、馬渡はそう思ったという。
そんな中村とJリーグの舞台で再会したのは、2018年だった。14年にガイナーレ鳥取でプロキャリアをスタートさせた馬渡は、J3、J2を経て、プロ5年目にしてサンフレッチェ広島に加入し、J1へとたどり着く。18年3月10日に行われた明治安田生命J1リーグ第3節で、当時の中村が在籍していた鹿島アントラーズと対戦した。
「でも、充孝くんはスタメンで出場していましたが、自分はベンチスタートでした。結局、その試合で自分は出場機会を得ることはなく、同じピッチに立つことはできなかった。出場していれば、右サイドでマッチアップする状況だったので、対戦するチャンスがあったのになって思ったことを覚えています」
その後も対戦する機会はなく、少しばかりの悔いとして馬渡の心に残っている。
ふたり目は、プロキャリアをスタートさせた鳥取で出会った倉貫一毅である。
東洋大学時代に練習参加させてもらった京都でプレーしていた倉貫と、14年にチームメートとして再会する。
「京都では、練習参加といってもわずか3日間。一度だけ、練習試合に出させてもらったのですが、公式戦に出場していた倉貫さんは、リカバリー組だったので、一緒にプレーしたわけではなかったんです」
練習生のことなど、記憶に残っていないだろう。そう思っていた馬渡は、倉貫にこう挨拶した。
「はじめまして」
すると倉貫は、こう返事をした。
「久しぶり!」
覚えてくれていたことに驚いていると、倉貫はさらに言った。
「京都への加入は決まらなかったの? いい選手だなって思っていたんだけどな」
そう言ってくれたこともうれしく、倉貫を慕って行動をともにしていたある日、言葉を投げかけられた。
「お前は能力があると思う。でも、それなのに今、なぜ、J3のチームでプレーしているのかをしっかりと考えろ。それを理解して、そこに目を向けなければ、このままお前は埋もれていくぞ」
自分自身に向き合い、人として、サッカー選手として姿勢を改める、見つめ直す契機となった。
いつだったか、倉貫本人にその言葉が、自分のターニングポイントになったと話したことがある。すると倉貫はこう言った。
「そう言って、お前が頑張れば、チームの力になるだろ? それでチームの結果が出れば、結果的に自分のためになる。だから、そう言っただけだよ」
倉貫は笑って、とぼけていたというが、声を掛けてくれたその背中は大きく、自分が進む道標になった。
「充孝くんとの自主練は、今でも自分が1対1で粘り強い守備をするときに役立っていると思います。何より、プロになる選手とはどういう選手かを身近で感じさせてもらいました。
倉貫さんには、人間性やマインドの大切さを教わりました。それは1日や一瞬で変わることはできないですけど、選手としてだけでなく、人としても日々変化し、成長できるというきっかけを与えてもらいました。だから、ふたりとも、僕にとってはヒーローなんですよね」
32歳になった馬渡が今、全力で練習に打ち込み、粘り強さとひたむきさを見せているのは、自分にとってのヒーローたちの背中を見てきたからだろう。
「自分自身、今はなかなか試合に出られず、苦しい状況ですけど、そういうときだからこそ変わらずに、練習をしっかりやって、全力のパフォーマンスを出すことで、周りが感じてくれることもあると思っています。日々、それができているから、何かのタイミングで言葉を掛けたときの発信力や説得力、さらには言葉の重みにもつながっていくと信じています」
同時に、浦和レッズでプレーできる幸せを感じている。
「なかなか試合に出られないからといって、例えば腐ったり、力を抜いたとしたら、高校生や鳥取のときの自分は、きっと言うと思うんですよね。『お前、今、浦和レッズでプレーできているんだぞ! 腐るとか、手を抜くとか、ふざけるんじゃねーよ!』って」
今の自分に感謝し、自分のため、浦和レッズのために日々発奮している。馬渡は、かつて自分が見てきた背中のように、誰かの「マイヒーロー」=「指標」になっている。
(取材・文/原田大輔)