11月3日の鹿島戦では4年振りのJリーグ出場。7日の湘南戦では移籍後初先発。
前所属での公式戦最終出場は今年の5月で、広島での練習合流が10月12日。
「ずっと、のんびりしていた。何もしてこなかったよ」
もしその言葉が事実であれば、塩谷司は超人である。
2017年夏、中東屈指のビッグクラブ=アル・アイン(UAE)に移籍した塩谷は当初、「ここでのプレーは2年くらいかな」と思っていた。だが現実には4年の滞在。彼がUAEでの生活を満喫していた証拠である。
「夏は最高気温50度にも到達する気候だけど、建物はクーラーが効いているし、食事も様々な国の料理があって楽しめました」
特に気に入ったのは、UAEのカフェ文化だという。
10月12日の広島復帰日、初めてのパス練習は「ボールを蹴るのが久々過ぎて、すごく変な感じでした」(塩谷)。確かに今見れば、ちょっとぎこちないかも。
「日本のコンビニのように、どこに行ってもカフェがある。おしゃれなランチがあるわけではないけれど、どのお店も味に特徴があったし、コーヒー好きの僕にとっては嬉しかった。UAEと比べて、日本ではカフェが少なすぎます(笑)」
この4年間、常にレギュラーを張り、2018年のクラブ・ワールドカップでも全4試合に先発。決勝のレアル・マドリード戦も含めて2得点をあげ、サポーターを熱狂させた。だが、充実した生活を一変させたのが、新型コロナウイルスのまん延だった。
やはり復帰初日の光景。しっかりと走り、ボールを動かした後のウオーター・ブレイクの時、池田誠剛フィジカルコーチに対して「まだ(やるの)?」と笑顔で問いかけ。ちょっと疲れたみたい(10月12日撮影)
「夜間の外出が禁止になり、スーパーに行くのも許可がいる。生活面で大きなストレスが溜まりました」
2019-20年シーズンは途中で打ち切り。子供の学校のこともあり、「何があるかわからないから」という彼の判断で家族は帰国の途についた。ただ彼もまた、1年間に及ぶコロナ禍中の単身生活に疲れ、「少しサッカーを休んでもいいかな」という心境に。5月、アル・アインとの契約満了と共に彼も帰国した。
最初に連絡をとったのは、古巣・広島。しかし心身の疲労を癒やすことを優先したいという彼の想いをクラブは理解した。時間をおけば当然、他クラブからのアプローチも増幅し、彼を獲得できないリスクもある。広島はそれでも、彼の気持ちを優先させた。
「このことは、本当に有り難かった。その後もクラブは自分を気にかけて、連絡をとってくれましたし」
広島の街と人々が好きで、そして「自分を育ててもらった」というサンフレッチェ広島への愛着もさらに深まった。
「移籍するなら広島一択だった」
10月30日、塩谷司は筆者にこう言ってくれた。4年前、UAEへの旅立ちに際して「日本に戻るなら広島」と語った時と、想いは全く揺らぎはしなかったのだ。
塩谷司(しおたに・つかさ)
1988年12月5日生まれ。徳島県出身。徳島商高から国士舘大を経て、2011年に水戸加入。ルーキーイヤーから活躍し、複数のJ1クラブからオファーがあった中で、2012年8月に広島に完全移籍。水戸に移籍金を残したいが故、あえてのシーズン途中での移籍だった。ただ移籍当初は試合に出られず、悩んだあげくに円形脱毛症になったこともある。それでも2012年11月24日、広島が初優勝を決めたC大阪戦に先発出場。翌年からは盤石のレギュラーとなり、2013・2015年の優勝では主力として貢献。今年5月、移籍していたアル・アインとの契約満了。10月、広島と再契約を結んだ。
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