サッカーは“するもの”であって、“見るもの”ではない。
実はこれ、「サッカー選手あるある」かもしれない。
1996年生まれの平野佑一もまた、自身がサッカーをすることに夢中で、生まれたときからJリーグがあったにもかかわらず、小学生時代はJリーグを見た記憶がないという。
平野にとってJリーグが身近な存在となったのは、中学に進学する際に東京ヴェルディジュニアユースに加入してからだ。
「ジュニアユースの選手たちがスタジアムでトップチームの試合を観戦する日があって、そこで初めてJリーグの試合を見ました。フッキとか、ディエゴとかがいて、けっこう強かったんじゃないですかね。ただ、憧れていたわけではないし……」
Jリーグ30周年記念企画・浦和レッズの選手にとっての『マイヒーロー』。第1回の犬飼智也に続く第2回にして早くも頓挫しそうになったが、「あ、ひとりいました」と平野が記憶から引っ張り出したのは、日本代表のレジェンドだった。
「中田英寿さんはすごく好きでした。小学生時代、親に髪を切ってもらっていたんですけど、中田さんみたいにソフトモヒカンっぽい髪型にしていた時期があります(笑)」
中田がJリーグでプレーしたのは95年から98年夏まで。1998 FIFAワールドカップ フランス大会終了後にセリエAのペルージャに移籍したから、平野が知っている中田はベルマーレ平塚時代ではなく、セリエA時代、日本代表としての中田である。
しかも、前述したようにサッカーを見る習慣がなかったから、中田のプレーが脳裏にくっきりと焼き付いているわけでもない。
だが、それでも子どもながらに「中田英寿は別格」という印象を抱いていたという。
「味方を動かすようなすごいパスを出したり、フィジカルが強くて相手を吹っ飛ばしたり、人と違うようなプレーをするところがカッコよかったですね。なんとなくですけど(笑)。世界的なビッグスターも中田さんのことを知っているから、それもすごいなって。
強烈に覚えているのが、ドイツ大会でブラジルに負けたあと、ピッチに倒れ込んで仰向けになったシーン。すごくカッコいいと思ったし、まだまだやれるのに、もう引退するの? って。引き際もカッコよかったですよね」
小・中学生時代の平野は小柄なアタッカーだったが、國學院大學久我山高等学校に進学すると身長が伸び、ポジションもアンカーとなった。この頃になると、サッカーを見て学ぶようになったが、見る対象はもっぱら海外サッカーだった。
「久我山がバルサ(FCバルセロナ)のスタイルを標榜していたので、バルサの試合は3年間、全部見たと思います。大学時代も海外サッカーしか見ていなかったから、Jリーグのことは全然分からなくて。それこそプロになったばかりの頃は、チームメイトのことも、対戦相手のことも知らなくて苦労しました(苦笑)」
小・中学生時代はすばしっこさを武器にしたアタッカーで、高校時代は後方でパスを散らすアンカーだったから、中田のプレースタイルに影響を受けたわけではない。
だが、平野の独創的な考え方や自身の哲学を大事にするところは、中田に通じるものがある。
(取材・文/飯尾篤史)
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