海外も含めてプロ入りから一切の移籍がない「ワンクラブ・マン」は、今のサッカー界では希少価値である。
湘南戦(7月10日)に向けてウオーミングアップに余念がない青山敏弘。この時は既に、ミヒャエル・スキッベ監督はメディアに向けても青山の湘南戦での先発を公言していた(7月9日撮影)
しかも、その希少な選手の中でJ1通算400試合出場を達成した選手は青山を含めて5人だけであり、現役では彼のみだ。
ちなみに広島ではもう1人、前述の記録を成し遂げたワンクラブ・マンがいる。森﨑和幸である。
プロ19年目となる青山だが、ボールを蹴ることが楽しいというサッカー少年の部分も忘れてはいない(7月9日撮影)
2人が初めてボランチでコンビを組んだ2008年、広島は42試合で勝点100という記録的な強さでJ2を制覇。だがここから、2人に苦難が訪れる。森﨑和は慢性疲労症候群という難病との闘い、青山は膝の半月板損傷で手術を繰り返し、さらに腰痛も彼を襲った。
どんな時もトレーニングの先頭に立つのは青山。試合に使われなくてもその姿勢は崩さない。だからこそ、選手たちのリスペクトを集める(7月9日撮影)
J1復帰以降初めて、彼らがコンビを組んでフルシーズンを闘ったのは、2012年。この年、広島は初優勝を果たし、そこから4年で3度の優勝という黄金期を迎える。
優勝年は2人とも全て33試合以上の出場を果たしたが、優勝を逃した2016年は2人とも離脱を繰り返した。そして2017年、森﨑和は病のために試合出場が叶わなくなり、2018年に引退。広島は以降、優勝していない。
かつて「広島のエンジン」とまで称された青山の走力。年齢による衰えはあるものの、まだまだ闘えるレベルにある(7月9日撮影)
どうして、2人のコンビはタイトルをもたらしたのか。
「アオは人が見えないところが見えるし、クオリティも高い。その力を引き出してやることが、最もチームのためになると確信していた」と森﨑和は語り、そして続けた。
既に先発は伝えられていた青山。その心中はいかばかりか。闘志は静かに燃えていた(7月9日撮影)
「ただ、僕がアオを活かしただけでなく、僕もアオによって活かされた。だから、1+1が3にも4にもなったと思います」
青山も森﨑和へのリスペクトを欠かさない。
「今でもカズさんは僕の憧れであり唯一無二。カズさんをずっと追いかけているからこそ頑張れる」
プライベートでも仲がいい野津田岳人は青山について「僕ら選手の鑑」と心からのリスペクトを込めて語った(7月9日撮影)
青山がJ1通算431試合出場というクラブ記録を更新した湘南戦での引き分け後、前記録保持者の森﨑和幸は青山敏弘に記録達成記念のユニフォームを贈った。
その時、背番号6はかつて共に栄光をつかんだ最高のパートナーに「勝ちたかった」と思わず言葉を漏らし、レジェンドは静かな笑顔で後輩の肩を抱いた。
2人にしかわからない想いが絡まり、偉大な夜は更けていった。
青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。2005年、左膝前十字靱帯断裂という大ケガを皮切りに、左膝内側半月板損傷による3度の手術や腰痛など、ケガとずっと闘い続けたサッカー人生を送ってきた。2019年のアジアカップで右膝軟骨の痛みが再発し、その年7月まで試合に出ることもできなかった。しかし、度重なるケガを乗り越える度にピッチで成長を見せ付け、2014年のワールドカップ出場、2015年のJリーグMVPという栄光をつかむ。サンフレッチェ広島30年の歴史にその名前を刻む存在。
関連記事
青山敏弘がインスタグラムに刻んだメッセージの裏側にあるもの。
【中野和也の「熱闘サンフレッチェ日誌」】