全体練習が終わって約1時間、ずっとボールを蹴り続けた青山敏弘がようやく、ドレッシングルームへと戻ってきた。
5月20日に行われた彼の居残り練習がハードな内容だったこともあり、翌日の京都戦で彼がメンバー外になることは濃厚(そして実際、メンバーには入れなかった)。
それでも、彼の言葉を聞きたかった。
「ちょっと、いいかな」「オッケー。どうぞっ」
野津田岳人(手前)と一緒に、トレーニングを続ける青山。どんな練習であっても全力を尽くす姿勢は、ルーキー時代の2004年から変わらない(5月6日撮影)
4月29日の対清水戦以降、彼はリーグ戦のメンバーから外れた。だが青山は、5月13日対浦和戦後、自身のインスタにこう書き込んでいる。
この投稿を読んだ時、胸が締め付けられた。
試合に出られないのは選手にとっての屈辱。なのに、どうしてこんな言葉を発信できるのか。
棚田遼(28番のパンツ)や川村拓夢(27番)、さらに来季の広島加入が決まっている山﨑大地(パンツ番号なし)ら、10代から20代前半の若者たちと一緒に、36歳の青山が楽しそうにボールを回している(5月20日撮影)
「中野さんが取材してくれないから、自分で発信するしかないじゃん。自身を奮い立たせるためにもね」
青山はそう言って、笑った。
スキッベ監督の指導が始まった3月上旬、青山は「この監督の下でやっていけば、僕はまた上手くなれる」と語っていた。
スキッベ監督のサッカーは、まず走ること、そして身体の切れが重要視される。若い選手たちと一緒に、青山もまたフィジカルを磨くために走り続ける(5月6日撮影)
「今もそう思います。実際、判断や技術、フィジカルもよくなっている実感はあるし、もっとよくなればゲームに絡んでいける。監督のことはリスペクトしているし、信頼していますからね」
約1ヶ月ぶりの公式戦出場となった5月18日のルヴァンカップ対清水戦、前半4分に青山は美しいループパスを茶島雄介に通し、永井龍の決定的シュートを導いた。試合後、スキッベ監督は「(試合中の)ケガさえなければ、アオを90分、プレーさせたかった」と自ら語った。
青山がメンバーに入れない理由は、指揮官の中にある。だが、彼の青山へのリスペクトは、背番号6の左腕にまかれたキャプテンマークが雄弁に物語っていた。
「すごいね。全然、ネガティブじゃないね」
僕の言葉に、青山はまた、笑った。
「もっと酷いことがたくさんあったのは、知ってるでしょ(笑)。こんなことでネガティブになって、どうするんですか(笑)」
青山敏弘はきっと、このままでは終わらない。僕は、そう信じている。
青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。2005年、左膝前十字靱帯断裂という大ケガを皮切りに、左膝内側半月板損傷による3度の手術や腰痛など、ケガとずっと闘い続けたサッカー人生だった。2019年のアジアカップで右膝軟骨の痛みが再発し、その年7月まで試合に出ることもできなかった。しかし、度重なるケガを乗り越える度にピッチで成長を見せ付け、2014年のワールドカップ出場、2015年のJリーグMVPという栄光をつかむ。サンフレッチェ広島30年の歴史にその名前を刻む存在。
【中野和也の「熱闘サンフレッチェ日誌」】