9月16日、首位神戸との対戦を迎えて、緊迫した空気がエディオンスタジアム広島には漂っていた。1万8722人のサポーターが息を呑む試合前、一つのセレモニーが行われた(下記動画7:20〜)。
野津田岳人、J1通算200試合出場。「自分を育ててくれた方々や、家族をはじめとするサポートしてくれた人々のお陰です」と試合前に語っていた背番号7のもとに、よちよち歩きの可愛い男の子が近づいた。
今年11月に2歳を迎える彼の長男だ。満面の笑みで息子と、そして愛妻を野津田は抱きしめた。
実はこの記録が達成されたのは約1ヶ月前、8月13日の浦和戦。そしてこの試合は、サンフレッチェ広島にとって開幕戦と最終戦に匹敵するほどの重要な試合「ピースマッチ」だった。
1945年8月6日、世界で初めて原子爆弾を投下された広島は、約35万人だったと言われる人口のうち約14万人が年内に死亡。原爆死没者名簿には現在、33万9227名のお名前が記載されるほどの災禍に襲われた(数字は広島市ホームページより)。
この広島の歴史を風化させず平和の願いを世界に発信するために、2018年からスタートしたのがピースマッチだ。今年は8月13日に行われた浦和戦がそれにあたり、浦和からは酒井宏樹が、そして広島からは野津田岳人が選手たちを代表して挨拶を行った(上記動画の8:14〜)。
広島で生まれ育った野津田は物心ついた時から、8月6日は黙とうを欠かさない。他の都市や海外にいたとしても、この日は絶対に祈りを捧げる。もちろん、ピースマッチへの想いも深い。
今年29歳になった野津田は、広島ユース出身者としてはチーム二番目の年長者。ユースの後輩である東俊希(右)や山﨑大地(中)、越道草太(右)や棚田遼(左端)らの言葉を聞き、そして自らの想いを伝えるよき兄貴分である(8月30日撮影)
「広島平和記念資料館に初めて訪れて、いろんな写真やモノを見て、本当に怖かった。しかもそれが、実際に起きた広島の歴史だったことを知って、とにかく悲しかったんです。でも、広島や長崎の方々を除く多くの人たちは(原爆の現実を)知らないと思う。だからこそ、広島のサッカー選手として、僕たちがもっと発信しないといけない」
野津田といえば最近はリーグトップクラスのボール奪取能力が注目されがちだが、原点は左足の破壊力。そろそろ彼の左足シュートがネットに突き刺さる光景を見たい(8月30日撮影)
「75年間は草木も生えない」と言われた広島だったが、今はそんな言説を忘れさせるほどに復興。「悲惨な状況から広島の人々が力強く立ち上がった、その事実が尊い」とミヒャエル・スキッベ監督は語る。
愛する家族と共に暮らし、好きなサッカーを続けられるのも、先人たちが復興に情熱を注いできたから。
その努力への感謝と平和な未来への決意を胸に秘めた野津田岳人は、203試合目となる神戸との戦いで奮闘し、チームを勝利に導いたのである。
野津田岳人(のつだ・がくと)
1994年6月6日、広島市生まれ。ジュニアユースから広島の育成組織で育ち、2009年からは異例の中学3年生での広島ユース入り。翌年からの高円宮杯3連覇に大きく貢献した。2012年、高校3年生でJ1デビューを果たし、翌年からプロ契約。2度の期限付き移籍を経験した後の広島復帰はクラブ史上初。昨年は広島躍進を支えるボランチとして日本代表に初選出され、Jリーグ優秀選手賞も受賞した。200試合表彰の際、花束贈呈した愛息の愛らしさと奥様の美しさが、ネットで話題に。
【中野和也の「熱闘サンフレッチェ日誌」】