バックハンドから放つスライスが、芝の上を低く滑り、相手の体勢を崩す。
その返球が浮くと見れば、すかさずネットに詰め、バックハンドのボレーを柔らかくネット際に沈める。
芝のテニスのテキストブックのようなプレーで、準決勝に勝ち上がったのは34歳のタチアナ・マリア。四大大会でのベスト4はおろか、4回戦以上に勝ち進んだのも今大会が初めてである。
その勝利を支える片手打ちのバックハンドは、僅か8年前に獲得した武器。それが無ければ、2児の母の大躍進も、もしかしたら幻となったかもしれない。
国際的なハンドボール選手を父に持つタチアナが、はじめてトップ100入りを果たしたのは2015年のこと。
この時、28歳。遅咲きに類するキャリアも目を引くが、それ以上に人々を驚かせたのが、1年半前に出産したばかりだという履歴。
そして、両手打ちだったバックハンドが、片手打ちになっていた点だ。
芝の上で巧みにバックのスライスを用いて勝利を重ねるタチアナ・マリア
もっともそれ以前より、彼女が両手でバックハンドを打つこと自体が、稀だった。
「バックハンドは、ほとんどスライスだった。両手で打つのは、そうせざるを得ない時だけ」
今になって恥ずかしそうに、彼女は当時を振り返る。
そんな彼女に、「バックを片手打ちにしよう」と提案したのは、コーチでもある夫。出産を終え、復帰を目指し再びコートに立った日のことだったという。
プロキャリアも10年ほど経った時点で、バックハンドを片手打ちにするのは、とてつもなく勇気ある決断に見える。
ただ、母となってのツアー挑戦に比べれば、さしたる変化でもなかったかもれない。
復帰後の彼女は新たな武器を携え、2017年にトップ50入り。2018年にはツアー初タイトルも手にした。
そして昨年春、彼女は第二子を出産すると、年内に再び復帰。今年春には二つ目のツアータイトルをもつかみ取った。
なお、9歳になる長女はプレーヤーラウンジの人気者で、多くの選手の“練習相手”をつとめているのだとか。
国、文化や宗教、そして家族――。究極の個人競技であるテニスでは、各々の背景がプレースタイルに反映され、それぞれが独自の順路で旅をする。
それら数多の物語のなかでも、ひときわユニークで温かなそれを描きながら、タチアナ・マリアは、準決勝で“聖地”のセンターコートに立つ。
タチアナ・マリア
1987年8月8日生まれ、ドイツ出身。旧姓は”マレック”。2児の母として、育児をしながら大会に参加。今回が初めての四大大会ベスト4。
【内田暁「それぞれのセンターコート」】