11年8月、夏の甲子園一回戦で敗退した大谷(写真:日刊スポーツ/アフロ)
「もう『頑張って!』っていう(笑)。(3年生は)最後の大会だと思いますし、悔いのないように。ウチの高校だけじゃなくて、出場している高校は悔いのないように頑張ってほしいなと思います」
エンゼルスの大谷翔平選手(29)は8月10日の試合後、母校・花巻東高校の甲子園初戦突破を問われ「悔いのないように」と繰り返した。世界一のプレーヤーの呼び声高い男も高校野球の聖地には苦い思い出しかない。
《2回とも、あまりいいピッチングができなくて、いい印象はない》《1度も勝てなかったですから》(『輝け甲子園の星』’12年9月号)
大谷の二刀流の原点・高校球児時代に迫るーー。
「WBCのときに連絡しました。初戦の後に『ナイスピッチ!』、優勝した日に『世界一おめでとう!』とLINEで伝えました。最初は『Thank you、Thank you!』、優勝後には『ありがとう!』と返ってきました」
生き生きとした表情で話すのは、花巻東で大谷と同級生だった山根大幸さん(28)。大学、社会人でも投手として活躍し、現在は日本生命の会社員だ。
「高校時代、寮に飾られている『日本一の景色』という貼り紙を見て、練習に励んでいました。僕らの代が岩手出身の子だけで戦う最後のシーズンでした。監督はずっと『岩手から日本一』を掲げていましたし、翔平たちと『甲子園で優勝しよう』とよく話していました」
大谷は入学前から怪物だった。中学1年時に投手として、打者・大谷と対戦した元チームメイト・小原大樹さん(28)はかつて本誌にこう話していた。
「監督から『勝負するな』と指示があって、手の届かないような敬遠の球を投げたら、腕を伸ばして右手1本でスタンドに運ばれました。鮮明に覚えています。高校で甲子園に行きたいと思い、花巻東を受験しました。試験会場に行くと、翔平が座っていた。ピッチャーとしてもすごいと知っていましたから、かなり努力しないとエースナンバーを取れないと思いましたね」
’10年の入学時点で、大谷は143kmを投げていた。花巻東のトレーナーを務め、現在は「東北スポーツ整骨院」を経営する小菅智美さんは初めて投球練習を見たときの衝撃を今も覚えている。
「きれいなフォームから、手元でビュンと伸びるような球を放っていた。体重は60kg台で細かったので、増量して筋力をつければもっとよくなる。早い段階で、監督さんとの話のなかで『160km』という言葉が出てきました」
プロの世界でも150kmを放れば、速球投手と言われた。当時、日本人投手で160km以上を記録したのは’10年8月の由規(ヤクルト)だけだった。
高校1年の冬、大谷は佐々木洋監督の考案した「目標達成シート」に「ドラ1 8球団」と夢を記入。野茂英雄(近鉄、ドジャースなど)らに並ぶ過去最多のドラフト指名数を掲げ、達成するために必要な要素を8つ並べた。その1つに“スピード160km”があった。
「高校生で、自分の思いを明確に話せる選手って少ないんですね。でも、大谷君は『160kmを投げたい』とハッキリと話していた。目標のために今、何をすべきかを逆算して練習をしていました」(小菅さん)
別の用紙に大谷は「163km」と書き、ウエートトレーニング場に貼った。160kmを目指すと150km台後半で終わる可能性があるため、より高い数値を設定したのだ。
■震災後、室内練習場で「岩手のために戦う」と誓っていた大谷にケガの悪夢がーー
だが、夢に邁進していた大谷に予期せぬ出来事が起こる。’11年3月11日、東日本大震災が発生した。
「震災後、翔平は室内練習場に被害を伝える新聞記事を切り抜いて貼り、『岩手のために戦う』と誓って練習していました。1人で背負えるはずがないのに、目つきがガチ(本気)なんですよね。言葉数は少なかったけど、怖さすら感じるほどでした」(小原さん)
内陸にある大谷の実家は小さな被害で済んだ。一方、沿岸部の大槌町出身で、捕手の佐々木隆貴さんの実家は津波に流された。両親は避難できたが、釜石市に住んでいた祖父母は命を落とした。佐々木さんはこう言っている。
《あの時期、練習中や寮生活で翔平が話しかけてくる回数が増えた。たわいのない内容だけど、何とか励まそうとしてくれていたのが分かった。寮での食事のときには、別の仲間がぼそっと「一緒にがんばろうぜ」と言ってきたこともあった。気恥ずかしくて「ありがとう」とだけ答えた》(「朝日新聞・岩手版」’21年10月3日)
岩手のためにも、甲子園で活躍する──。そう誓っていた大谷に悪夢が襲う。県大会を2週間後に控えた7月初旬、練習試合でケガをしてしまい、開脚すらままならない状態になった。当初は左太ももの肉離れと診断された。
「私は責任を感じました。それでも、大谷君は決して人のせいにはしない。目いっぱい練習できないもどかしさがあっても、落胆は見せず、今できることに淡々と取り組んでいました」(小菅さん)
夏の岩手大会、大谷は3回戦から打者として出場。主に「3番・ライト」で17打数7安打と活躍。投手としては4回戦に一度登板しただけで、1回3分の2を4失点と本来の力は出せなかったが、聖地への切符を手に入れた。
憧れの甲子園での初戦は帝京(東東京)だった。4回途中から登板した大谷は最速150kmをマーク。6回には打者としてレフトフェンス直撃の同点タイムリーを放った。しかし、7回に勝ち越し点を奪われ、7対8で敗れた。試合後、「(岩手に)勝利を届けたかった」と泣きじゃくった大谷は「先輩のためにも甲子園で投げたいと思っていた。来年もここに来る。日本一になる」と涙を拭った。アルプススタンドで声援を送っていた山根さんも気持ちを新たにした。
「その日、新チームとして初めてのミーティングをしました。僕らの代は、2年の夏から何人も主力として出場していた。投手が3枚いて、すごい打者もそろっていた。実力的に歴代最強だと思ったし、『来年は必ず日本一になろう』とみんなで誓いました」
野球漬けの日々だったが、大谷は学校の成績もよかった。同じ寮に入っていた山根さんが思い返す。
「翔平は学年のトップ5に入っていたと思います。寮で一緒に勉強をしているとき、字を書かないんですよ、アイツ。ずっとベッドに寝転がったまま、教科書や問題集を見ているだけ。大谷翔平の勉強法は寝転び学習。これが広がったら、受験生によくないと思うんですけど(笑)。とにかく集中力があった」
運動神経抜群、頭脳明晰、端正な顔立ち。三拍子そろった大谷がモテないはずはない。学校の廊下を歩くだけでキャーキャー騒がれたという報道もあった。
「それはないですね。女子生徒と話していた記憶もない。練習で疲れ果てているので、休み時間は基本的に寝ています。恋人ですか? 野球部は男女交際禁止でした。それに練習が午後9時や10時に終わって、食事して風呂に入ると、何もする気が起きない。内緒で付き合っているヤツもいたけど、翔平はいなかったと思います。わかんないですけど(笑)」
■絶望的だった春の選抜出場のため、早朝に大谷は「神社にお参りしに行こうぜ」と……
甲子園終了後に痛みの引かない体を再検査すると、骨端線損傷だったと判明。成長段階の骨に過度な負荷をかけたために起こったケガだった。このピンチを佐々木監督は大谷の体を成長させるチャンスと考えた。睡眠を十分取らせるため、主力の多くが入る第一寮から、部員の少ない第二寮に移動させた。入部時から始めていた“食事トレーニング”も継続した。
「体作りも練習のひとつで、とにかく食べて体重を増やさなければいけなかった。ご飯は1日茶碗10杯がノルマ。最後は卵と納豆で流し込んでいました」(小原さん)
入学時、大谷は身長186cmながら体重66kgと痩せていたため「トッポ」と呼ばれていた。
「投手陣は練習中に呼ばれ、監督に『弁当が余ったから食え』と言われ、正座して無理やり口に入れていました。野球の練習よりつらかった。でも、そのおかげで体ができて、スタミナやボールの威力がつきました」(山根さん)
2年夏の甲子園で敗れた花巻東は、3年春のセンバツ出場に懸けていた。事実上の選考会である2年秋の東北大会、ケガの大谷は準々決勝からスタメンに復帰するも、準決勝で光星学院に惜敗。東北の出場枠は2つのため、甲子園は絶望的になった。しかし、各10地区の優勝校の集まる明治神宮大会で光星学院が勝ち進み、希望の光が見えてきた。山根さんは言う。
「優勝してくれれば、東北の枠が1つ増える。翔平が『神社にお参りしに行こうぜ』と言ったんです。第二寮に住んでいた5人で、朝の点呼がある前に向かいました」
準決勝当日、まだ日の昇らない時間に5人は飛び起き、一目散に学校近くの花巻神社に走った。
「『いつもありがとうございます。光星学院、よろしくお願いします』とお祈りしたら勝った。『明日も行くしかねえ!』となって、決勝の日もめっちゃ早起きして『ぜひ、光星学院の優勝をお願いします』と手を合わせたらまた勝った。センバツ出場が決まった後、翔平と『お祈りしてよかった』と喜びました」
大谷は骨端線損傷と判明してからの半年で、10kgの増量に成功。センバツ前には193cm、85kgになった。制服のワイシャツは特注になり、教室の机と椅子も体に合うように7cm底上げされた。年が明け、一回り大きくなった右腕は投球練習を再開した。
「下級生がキレのいい変化球を放っていたら、『どうやって投げるの?』と聞いてました。翔平とのキャッチボールで、僕がチェンジアップを投げたら『教えて』と。アイツはすごい選手なのに、本当に野球に貪欲で謙虚なんです。ただ、自分には合わないと思ったらすぐ切り捨てる。その性格が大成する理由なんでしょうね」(山根さん)
■謙虚な大谷が主審に耳打ち。「今だったらまだ間に合います。ファウルって言えます」
人には向き不向きがある。すべての助言を受け入れれば、自分の持ち味が消えてしまう。大谷はいいものを吸収しながらも、取捨選択はハッキリとしていた。考え方も行動も一流だった。そんな“超高校級”にもミスはあった。山根さんが振り返る。
「高校1年の冬に寝坊して、めちゃくちゃ怒られていました。当時、同部屋だった1年上の先輩がぐっすり眠っている翔平を見て、スーッと物音を立てずに練習に行った。先輩も性格悪いんですけど(笑)。翔平は『マジでやられたわ』って。監督は遅刻など私生活での過ちに厳しかったですね」
大谷は数日間、練習から外されて、雪かきをさせられた。佐々木監督は生徒が全力疾走を怠ったり、ふてくされた態度を取ったりすると、叱責を飛ばした。
「プレーでのミスには、ほとんど何も言いません。ただ、高2のときに翔平がセンターを守ってトンネルしたら、怒鳴られてました。『翔平でも叱られるのか』って、ちょっとみんなうれしくなって(笑)。逆に言えば、それくらい野球も私生活もキチンとしていました」
佐々木監督は失敗に対し、「準備不足ではないか」「どんな意識だったのか」と理由を探らせた。
「後に引かない怒り方なんです。『自分でちゃんと振り返って、次に生かしなさい』と諭されました」
部員のいる前での注意は2回しかなかったが、佐々木監督は大谷を決して甘やかさなかった。大谷が2年の冬にこう話している。
《実は先日も泣かせました。今しかないと思って…。大谷は謙虚で視野の広い投手だが、周囲に騒がれて投球練習でスピードに色気を見せたフォームになっていたので叱りつけた。140km後半でいい。低めに切れのある球を投げろと》(「岩手日報」’12年1月28日)
野球は球速で勝負が決まるわけではない。大谷が160kmという目標にとらわれているように見えた佐々木監督は投手の原点であるコントロールを磨くように促した。それでも、ケガ明けの大谷が甲子園で結果を出すには時間がなかった。
’12年春のセンバツ初戦で、花巻東は優勝候補の大阪桐蔭と対決。前年夏の甲子園以来の公式戦登板となった大谷は制球が定まらず、7四球、4死球と荒れた。花巻東は2対9で敗れ、2年夏に続いて3年春も初戦で姿を消した。それでも、大谷は“高校ビッグ3”の一人で身長197cmの藤浪晋太郎から特大の先制ホームランを放った。
「ケガ明けでまだ調子がよくなくて、(打者としての軸足である)左足に十分に体重を乗せられなかった。その状態で打ちましたからね。調子が悪ければ悪いなりに対処して結果を出す。並み外れた能力を持っていました」(小菅さん)
打者としては大器の片鱗を見せたが、投手としては未熟だった。大谷は「あれだけの大差をつけられて。悔しいというより情けなかった」と振り返っている。大谷と寮生活を送っていた山根さんが話す。
「いやあ、悔しかったですね。何がいちばん悔しかったかって、勝ったら次の日休みで『自由行動していいぞ』って言われていたんです」
花巻東の野球部には丸一日の休みがなかった。基本的に平日は夜9〜10時まで練習、土日は試合が組まれた。寮生にとって、自由な外出は練習のない平日の午後6時から7時までの1時間に限られた。
「4時半に授業が終わって、野球部のミーティングが6時まである。門限は7時です。その間に必死に自転車をこいで、ラーメンを食べに行ったり、TSUTAYAでDVDを借りたり、漫画を買ったりする。翔平は『スラムダンク』や『ダイヤのエース』を読んでましたね。『ワンピース』や『ナルト』も好きだったと思います。
一時期、寮でホラー映画がはやりました。翔平も何か借りてましたよ。ただ、コーチでもある寮の管理人が『悪いものを引き寄せてしまうから』と禁止令を出して、見られなくなった(笑)。僕らは気にしてなかったですけどね」(山根さん)
センバツでの敗戦後、大谷は藤浪の載っている新聞記事を寮に貼り付け、悔しさを胸に刻んだ。夏の県大会、花巻東は順当に勝ち進み、準決勝の一関学院戦で大谷が大会初先発。初回から150km台の速球を連発すると、6回のピンチでついに160kmを記録した。陰で支えてきた小菅さんにとっても歓喜の瞬間だった。
「すごくうれしかったですね。少しでも『無理かな』という気持ちがあれば、届かなかったと思います。でも、大谷君は心の底から『達成できる』と信じていた」
やみくもに高い数字を掲げるわけではなく、根拠があった。
「先輩の菊池雄星投手が高校時代に155kmを投げていた。監督も私も彼の体を見ていたので、大谷君なら超えられると感じた。監督が頻繁に一対一でも話し、『鍛錬を日々積み重ねれば、絶対に達成できる』と懇々と説いていました」
大人が子供の可能性を信じ、根拠を説明したうえで、道筋を提示する。大谷は毎日を全力で生き、常識を覆した。
一関学院を7回コールドで下した花巻東は、決勝で盛岡大附と対戦。先発の大谷は2回に先制を許すと、3回に4番の二橋大地にレフトポール際に3ランを浴びる。ファウルにも見える打球に抗議したが、判定は覆らなかった。花巻東は最終回に追い上げるも、3対5で敗北。試合が終わると、ナインはグラウンドで泣き崩れた。
「話しかけられる状況ではありませんでした。全員が『すべて終わってしまった』と落胆し、絶望の淵にいました」(小菅さん)
試合後、報道陣の取材に応じるときも大谷の涙は止まらなかった。
「160kmを出すよりも日本一を取って岩手の方々に喜んでもらいたかった。それができなかったのが、いちばん悔しい」
甲子園での雪辱を誓った大谷の高校野球生活は県大会で終わった。引退して数カ月後、山根さんは大谷本人からこんな話を聞いた。
「抗議している最中、翔平は主審に『今だったらまだ間に合いますよ。まだファウルって言えますよ』と耳打ちしたそうです。それだけ必死だったんですね」
■3年前に大谷の姉が野球部部長と結婚。「担任が兄貴になった」とLINEが
岩手大会決勝で敗れた数日後、大谷は目標達成シートに「世界最高のプレーヤーになる」と記した。
「監督が『高校野球は終わったけど、今後の人生も大事だから』と言って、3年生に書かせた。翔平は将来をよく考えてますよ。僕は『プロ野球選手になりたい。そして、女子アナと結婚したい』と書いた気がします(笑)」(山根さん)
プロ野球のドラフト会議を4日後に控えた10月21日、大谷はメジャーリーグへの挑戦を表明。意志が固いと判断した11球団が見送るなか、日本ハムは1位で指名。本人も考えていなかった投手と打者の二刀流を提示し、気持ちを覆させた。山根さんが証言する。
「最後の試合が終わってからも毎日、一緒に練習していました。将来の話もちょくちょくしていたけど、翔平はピッチャーとして野球を続けると言ってました。ドラフト前、二刀流なんて話はまったく出ていませんでした」
大谷は日本ハムを日本一に導いた2年後の’18年、エンゼルスに移籍。今年、投手で10勝以上、打者で40本塁打以上というベーブ・ルースも届かなかった偉業を成し遂げた。大谷の入団当時に日本ハムの二軍監督を務めていた田中幸雄さん(55)は自身の2千本安打の体験を踏まえ、力説する。
「大谷は2年夏や3年春に甲子園で悔しい思いをした。借りを返そうと誓ったのに、最後の夏は出場できなかった。その無念さが、原動力になっているはずです。僕も2年の春夏とも桑田真澄、清原和博のいるPL学園に甲子園で負け、3年夏は地方大会で終わった。もっと上を目指したい気持ちになった。悔しさは力になります」
“世界一”と称される今も、大谷は高校時代の仲間と交流を持っている。
「3年前、翔平の姉ちゃんが野球部の部長さんと結婚するとネットニュースで知ったんですよ。LINEで『これ、ガチなの?』と連絡したら、『いまさらかよ』と返信が来ました(笑)。『そうなんだよ。なんか担任の先生が兄貴になった』って。それから連絡を取るようになって、活躍した日に『おめでとう』と送ると、『Yes』とか『Thank you』とか英語で返してくれます。アメリカにいるよ、英語ができるようになってきたよ、ってことなんですかね(笑)」(山根さん)
屈辱のない人生など存在しない。大谷翔平も挫折から這い上がった。絶望の淵が深ければ深いほど、人は強くなれるーー。
(文:岡野 誠/取材:本誌取材班)