■ヒグマ110番30 歴史に埋もれた人喰い熊事件を発掘する 明治十三年札幌白石村人喰い熊事件
《ある日一頭の熊が、円山神社の横からノソノソと下りて来た。そこから札幌の街をノッソリノッソリと歩いて札幌村の方を荒らし、帰りはまた札幌の街へ現われたのである。
《去月三十一日の事なりし、札幌豊平川の彼の釣橋の辺へ一頭の荒熊あらはれ出で、往来の人を害し、なおまた同夜某牧場の牡牛と農学校試験場の馬をば害したるにぞ、同地の驚き大方ならず、あくれば本月一日の寅の一天に屯田兵一少隊は右退治としてくり出し、所々を狩出したるところ、ついに数発の鉄砲玉の下にこれを打斃し、同地博物館へ担ひ来りしが、その目方は四十二三貫目もあり、齢ひは三才ぐらひのものなりといふ。
「豊平川の彼の釣橋」というのは、国道36号線が通る「豊平橋」のことだろうが、現在では考えられないような事件である。
■明治13年白石村人喰い熊事件
《九日に下白石村にて馬を野飼いせんとて近傍の草原にひきゆきしに、図らずも二頭の熊を見たるものあり、翌十日、同村の高橋良昌(二十二年)、岩淵求馬(二十七年)、西東成章(二十二年)、石村梅三郎(二十二年)、四人にて鉄砲を携え、人里を離れるおよそ十町ほど行きたる頃、互いに左右に分かれ、熊の居所を探すと、二才ばかりの小熊、良昌が行き先よりあらわれたれば、用意の銃を発し、狙い違わず肩さきを打ち留めたれども、熊はこれに屈せず良昌に飛び付かんと暴れたので、銃の柄にてうち倒したり、岩淵求馬は砲声を聞くや、その場に駆け行かんとせしに、傍(かたわ)らより大熊出来たり、求馬は銃を発するいとまなく、持ちたる銃を捨て組み付きしが、背部を掻き裂かれ、ついに死す。
《岩渕安次、高橋良男は熊討ちに行き、子熊を先に討ち候ため、母熊が荒れ、その節、西東成吉、石村梅三郎、石村嘉吉兄弟、都合五人のうち、高橋と石丸(ママ)兄弟は早く木に登って逃げ、西東は笹の中に臥した。
■明治29年白石村人喰い熊事件
《白石村熊狩りの景況 巡査三名が旧土人三名を率いて白石村に出張、ここかしこと捜索したが、同所は一丈に余る熊笹で昼なお暗く、(中略)発砲したが手傷を負わせて逃げ失せ、他日を期して引き揚げた》(「北海道毎日新聞」明治29年9月6日)
《白石村熊狩り続報 去る二日以来、二人の人を傷つけ一人を殺し白石全村の騒ぎとなりたる熊は、去る四日午後三時頃、打ち留めたりる由、その際十五名の銃手と他に刀剣槍薙刀の連中二十四名にてときを作って二里余の間を駆り立て、(中略)耕地に出たところを沙流郡平賀村の旧土人バルタメ等の発砲が脇腹を射貫いて斃れた》(「北海道毎日新聞」明治29年9月8日)
「熊も終始出で、弟は熊と組み打ちして無慙にも殺されたり。熊笹の中にて出会い、思うように鉄砲も打てず、ついに熊と鉄砲をつかみ合い格闘したらしく、人間の背丈より高き熊笹が十間四方も伏せられ、頑丈なる鉄砲の銃身がヘシ曲がりて、弟の死骸より十五間も離れたる所に、逆に刺してありたるが、熊もずいぶん憤怒して悪闘したる事と想わる》(白石村役場『白石村誌』、1940年)
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。