北海道の開拓時代には、「薬罐(ヤカン)クマ」という、面白おかしく紹介される典型的なヒグマのエピソードがある。
たとえば宮北繁の『北海道熊物語』に出てくる「薬罐熊」は次のような話である。
根室にアイヌの老夫婦がいた。ある日、爺が用事で出かけたので婆が留守番をしていると、夜になって戸口で物音がする。爺が帰ってきたものと思いきや、姿を現したのは猛々しい大熊である。
熊は婆を取って喰わんと迫るが、婆は炉辺を逃げまわり、業を煮やした熊が一気に飛び越えようとした刹那、煮えたぎる薬罐に足を突っ込んでしまう。
熊は熱さのために暴れ狂い、柱に打ちつけるものだから、薬罐はペシャンコになり、さらに抜けなくなる。ついに小屋を飛び出して逃げてしまう。
翌朝、爺が戻ると、小屋の周りに熊の足跡が点々とあるので、てっきり婆は喰われたものと観念したが、意外にも婆は元気で、事の顛末を爺に話す。爺はさっそく銃を持って熊の跡を追い、見事に撃ち止めた――。
だいたい似たり寄ったりのストーリーだが、以下の『小樽新聞』(昭和4年10月9日)に掲載された藤竹雄による記述は、状況設定や描写が具体的で信憑性が高い。
内容は《今から四十年程前、石狩におこった話》である。
石狩川の上流に、昼なお暗い大密林地帯があった。材木を流送する人夫5人ほどが、雨をしのぐ程度の小さな小屋に寝とまりしており、朝に出かけ、夕方近くに帰るのが常だった。
ある日のこと、仕事を終えて戻ると、家の中がひどく荒らされており、飯びつといわず鍋といわず、あらゆるものが目茶苦茶に散らかっていた。これまで見たことがないほど大きなクマの足跡もあり、相談の上、一番年寄りの、熊には少々経験のある1人が残って番をすることになった。
次の日の夕方、事件が起こった。留守番の老人が乱れた小屋のなかで血みどろで倒れていたのだ。朝早くやられたものとみえ、すでに冷たく硬い死体となっていた。
一同は驚愕と同時に恐怖で蒼白となった。
どうにかして仇をとりたいが、なにしろ人に手向かう熊であるから容易なことでは討ち取れない。そこで、土間の真ん中にたくさんの火を起こして焼灰をこしらえ、熊が入ってきたらスコップでこれを熊の顔に打ちつけて目つぶしをかけ、ひるむところを斧で切ってかかろうということになった。
翌日、準備万端整えて待っていると、朝の10時頃、はたして「バサリ、バサリ」と柴をかきわけてやってくる音がする。戸板の破れ目から覗いてみると、その熊の大きいこと大きいこと、まるで大岩石のような奴が「ズシリ、バサリ」とやってくる。
爛々とした眼光の鋭さは周囲を圧するものすごさである。今までの意気込みなどどこへやら、みな一目散に屋根裏に逃げ上がった。
《入ってきた熊は、そのするどい眼を何か御馳走でもないものかとぎょろつかせているうちに、焼灰の傍(かたわら)に置いてあった大形の銅薬罐を見つけて、中に熱湯の入っているのも知らず、ふたを取ってあるのを幸いとばかり、のそりと、その太い前足を突っ込んだからたまらない。
流石(さすが)に厚い皮を持つた熊の手も熱湯にはたえ切れなかったものか、いきなり手を引こうとしたが、指をふれまいとして開いて引いたため薬罐はそのまま熊の手について上がった。
そのうちに熱さはますます募る。熊の方では薬罐が生きているもので故意に食いついているとでも思ったらしく、指をますます開くので薬罐は更に離れない》
こらえきれなくなったクマは薬罐を丸太柱に打ちつけ始めた。熱湯が焼灰に飛び散って灰神楽が立ち上り、息が詰まるほどである。打ちつけられる薬罐は、岩をも砕くばかりのクマの怪力にペシャンコに潰れ、すっかり熊の手袋のようにくっついてしまった。さすがのクマももう敵わぬと、薬罐のくっついた足を引きずって外へ飛び出した。
屋根裏の人夫たちは、生き返った思いで下りてきたが、自分たちではとうてい手に負えぬということで、クマ取りのアイヌに駆除を頼んだ。頼まれたアイヌは、薬罐のついた足で歩く一風変わった足跡をつけていき、間もなく討ち取ったという。
これが「薬罐熊」の原点となる物語だろうと思ったが、さらに古い記事を見つけた。
それは明治16年2月17日の読売新聞で、前出の藤竹雄の言う40年前(明治22年)とは6年の誤差がある。また事件現場や、薬罐を踏み込んだのが後脚だったりと細部は異なるが、状況からみておそらく同じ事件だろう。
旧開拓使の船「箱館丸」の操縦士・植田直勝が、函館に停泊すると、夜になって200〜300人が山の中へ集まり、鬨(とき)の声をあげ始めた。
《間もなく所々にかがり火を焚き、その夜は一同そこに明かせし様子なりしが、翌朝に至りて一疋の大熊を前後より取り囲み、その勢い山も崩るるばかりにみるみる浜辺へ追い出し、遂に打ち止めたれば、植田氏は始めて熊狩りにてありしとさとり、心落ちつきてようよう上陸なし》
海岸に追い込まれた熊を眺めていると、左の後脚には薬罐がはまっていた。体には8発の弾丸が当たっていた。植田が話を聞くと、
「この熊は今から3年前、山番を喰い殺したが、追われて逃げたとき、囲炉裏にかけた薬罐に脚を踏み込み、そのまま逃げ去ってしまった。村人はこの熊を薬罐熊と称して恐怖していたが、先日、名主の祖母を喰い殺したので、一同申し合わせて熊狩りをした。首尾よく打ち殺すことができた」
と話した。この熊の皮を剥いだところ、8畳ほどの大きさになったという。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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