明治33年(1900年)、道北の北見枝幸(きたみえさし)地域で、ゴールドラッシュが巻き起こった。一説には、内地から1万人とも言われる砂金掘りが押し寄せたという。その大騒動は長らく語り継がれたが、いつしか歴史に埋もれ、人々の記憶から消え去ってしまった。同時に、凶暴なヒグマに喰い殺された食害事件も忘れ去られた。
この地方での人喰い熊事件はゴールドラッシュが起こる以前から発生していた。
明治29年12月、北見国宗谷郡声問村、声問川西岸マクンベツの炭焼き小屋に、数日前から1頭の大熊が現れ、食糧を得ようと夜間に小屋のなかを窺うことがしばしばあった。
そこで小屋に居住する杣夫(=木こり)、安住重太郎、大久保熊五郎、三浦多助、中村和吉ほか4名が石油缶を叩いて山奥深くに追い込んだ。しかし、再び襲い来たのを、誰一人として気づく者はなかった。
10日の早朝から伐採用の木材を検分しようとマクンベツ山に入り、2、3人ずつ手分けして森林中を歩いていると、正午頃になって大久保熊五郎がヒグマと遭遇した。
熊五郎は狼狽して身を翻して逃げようとしたが、熊はまっしぐらに飛びかかった。顔面を打ち、倒れたところを小脇に抱えて一目散に駆け出したので、熊五郎は悲鳴をあげ、仲間の救援を求めた。
ほかの者が駆けつけたときには、すでに熊は熊五郎を抱いたまま渓谷深く下りつつあったので、いかんともできず、アレヨアレヨと叫ぶうちに、熊は再び熊五郎の顔面を打ち、続いて腹部をくわえ、ひと振りに沢へ投げ落とした。
ヒグマは、山々が崩れるばかりのすさまじい怒声を発して直立し、こちらを指して飛び来たり、後藤長次につかみかかろうとした。長次は一命を賭して大斧を真っ向に振りかざして身構えたので、さしもの熊も喰いかかってこなかった。
そのまま近くにいた三浦多助に飛びつき、見る間に噛み殺した。高橋惣太郎は顔色を変え、懸命に立木に登ったところ、熊は噛み殺した多助の死骸と長次を捨て置き、樹上の惣太郎に眼を注ぎ、よじ登ろうとしてきた。
ちょうどそのとき、ほかの杣夫が銃砲や石油缶を携えて現場に到着、熊を追いやることに成功し、惣太郎らを救い出した。
しかし、最初に沢に投げ込まれた熊五郎は、このときすでに五体を喰い尽くされ、わずかに頸部のみを残すだけ。また、多助の死骸はいずれへ持ち去られたのか発見できなかった。
《同日午後に至って、この騒ぎが宗谷警察署に聞こえたので、警官がアイヌや壮丁数十人を二手に分けて懸崖絶壁を踏み分けて捜査するうち、多助の死骸が身体の三分の二を喰われて雪中に埋められているのを発見した。
そこでアイヌの中でもっとも経験の深い水野歌吉という者が、他の人々を杣小屋に避けさせ、自分は村田銃一挺と酒とを携えて多助の死骸のあるところより三間ばかりを隔てたトガの大木に棚を設けて、熊の現れるを待ち構えていると、案の定、翌暁に至って姿を認めたので、腰部と肋部を射撃して熊を斃した。足の長さ直径八寸余の六歳以上のものであった》(「朝日新聞」明治30年1月14日)
まさに人間を喰い殺すためにうろつく恐るべき人喰い熊であった。
時代が下って明治43・44年、またしてもこの地に、人喰い熊事件が連続して発生した。
明治43年3月18日夕刻、ウエンナイ原野で測量隊の一行が、山手の空洞から飛び出してきた3歳の牛くらいの大きさの熊に襲われ、逃げ遅れた測量夫・橋本寅松の左腕に数カ所の傷を負わせて、山の深くに逃げ失せた。
急報を受けた警察は、室伏作平、瀬上敬助に退治を嘱託した。2人は猟銃・食糧を準備して山また山を追跡し、24日の朝、橋本が負傷した場所に追い詰めた。敬助がまず火蓋を切ったが、雷管の腐食により、わずかに空音を発したのみで、この音響を聞き込んだ大熊は爆然と突進してきたので、敬助は顔を雪中に突き差して打ち臥した。
《熊は容赦なく敬助の胴体頭足を乱打するやら噛み付くやら憐れむべし 敬助は面部胴体手足に至るまでほとんど隙間なきまでの傷痍を受けた》(「北海タイムス」明治43年4月2日)
その惨劇を目の前で見ていた作平は運に任せて一発放つと、大熊は敬助を捨てて作平に向かってきたので、作平もまたその場に打ち伏したが、《猛り狂うた大熊は作平の右季肋腋窩線より肺に通ずる大傷を負わしめ大腿部腰部等都合十五ヶ所の傷痍を負わしてその場を去った》。
そのうち作平は銃身に身をもたせて敬助のそばへ近づき、「俺はもう天命だ、しかし君の負傷は軽いようだから、君だけ枝幸へ帰ってこの様子を伝えてくれ」と言い、眠るが如く、その場に倒れた。
ちょうど幌別方面から馬そりが通りかかり、作平だけが救われて治療を受たが、大小15個の傷で予後は非常に悪かった。一方、敬助の死骸は、4日めにようやく市内へ送られてきたが、《全身血潮の氷をもって封せられ、ふた目と見られぬ悽愴な死骸であった》という。
翌年の年末、またしても枝幸山中で砂金採取人が襲われた。
明治44年12月16日、ペーチャンの砂金採取人・川田政吉(44)が立原採金事務所へ行こうと峠に差しかかると、2頭の仔熊を連れた雌熊に出会したので、政吉はその場に伏して息を殺したが、親熊に発見されてしまった。
たちまち政吉に飛びかかって、頭部はもちろん全身に32カ所の爪傷や咬み傷を負わせた。川田が昏倒しているのを来合わせた事務所員が発見し、病院に収容、手当てを加えたが、担ぎ込まれたときは《五尺大の血塊》としか見えなかったという(「小樽新聞」明治44年12月22日)。
また、同日の「北海タイムス」によれば、《大熊は政吉の頭部に囓りつき、骨膜を剥き離し背部には肺に達する重傷を与え、その他大腿部より手腕に至るまで通じて三十二個所の爪傷と咬み傷を負わしめた》という。
これらの凄惨な事件は、大正期に入っても砂金掘りの間で長らく語り継がれていくことになる。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
外部リンク