これは、親子3人が自宅の目の前でヒグマに襲われ、喰い殺されてしまった恐るべき事件である。
異変は夜半に起こり、翌朝大挙してやって来た村人が、あまりにも凄惨な現場に言葉を失ったと伝えられる。現地では長らく言い伝えられてきたが、現在ではその記憶も風化してしまった。
詳細は『アイペップト 第2集』(愛別町郷土史研究会)の、安西光義の回顧談に収録されているが、当時の新聞記事なども照会しつつ、事件を追ってみよう。
福島に住んでいた7戸が中愛別17線、18線の沢に入地したのは、明治43年(1910年)春のことであった。福島県信夫郡大笹生村から移住した熊澤豊次郎(36、一説に豊四郎)一家も、この7戸のうちの1戸で、妻・静江(31、一説に志げの)と11歳の女子、4歳(一説に5歳)と1歳の男子の5人家族であった。
大正2年(1913年)9月27日、小雨の降る大変暗い夜であったという。
18線北24番地に小さな家を構えていた豊次郎は、長男・一二三とともに近所の実兄、平手鉄五郎の家で夕食を食べ、午後9時頃、一二三を背に提灯を提げて帰途についた(こちらも、隣家にもらい風呂に行った帰りとも、トウキビ畑に飼い馬が入り込んでいると思って馬を呼びに出たなど諸説ある)。
そして自宅の手前、約25間(約45メートル)ほどの地点にさしかかったとき、突然、蕎麦畑から一頭の大熊が現れて、背中の一二三に噛みついた。そして脳天を割り、腕をくわえて振り回して、一二三の左腕を肩関節から千切り取った。
さらにヒグマは豊次郎にも飛びかかった。豊次郎は平素から腕力に自信があり、「おのれッ」と叫んで熊に組みつき大格闘となったが、もとより及ぶべくもなく、声を限りに妻を呼び、「火を持ってきてくれ」と叫んだ。
静江は子供の悲鳴と夫の絶叫に肝を潰し、カンテラに火をともして戸外に駈け出ると、夫は無惨にも大熊に組み敷かれており、「アッ」と悲鳴を上げる間に大熊は静江に向かってきた。自宅へ引き返す暇もなく背中に噛みつかれ、頭部、腹部、臀部など13カ所に重傷を受けた。
このとき、近隣の佐々木家では悲鳴を聞きつけ、はじめは夫婦ゲンカだろうと思っていたが、容易ならぬ叫び声に驚き、ガンビに火を点じて夫婦で駈けつけると、今しも静江が大熊の一撃で最期を遂げようとしており、「ワッ」と驚いて命からがら熊澤家に飛び込んだ。
この間に静江は付近の黍畑に這い込んだが、大熊は惨死した豊次郎の屍体を喰らいはじめた様子で、闇の中に耳を澄ますと、惨忍な咀嚼音が聞こえるのだった。
佐々木夫婦はひそかに屋外に出て、畑でうめく静江を家に引き入れ介抱し、ブリキ缶を叩き続けて夜が明けるのを待った。
そして、ようやく大熊が屍体を喰い飽きて立ち去った未明頃、外を覗うと、豊次郎は胸から下が全部喰い尽くされ、見るも無残なありさまで、一二三は10間ばかり離れたところで紅血に染まって死亡していた。
佐々木夫婦は直ちに警察署役場病院に急報し、時を移さずに村民など280余名が参集した。
このとき、多くの村人が酸鼻をきわめる現場を目の当たりにした。安西光義は事件当時4歳であったが、このときの様子を鮮明に覚えているという。
《朝方集まって見た時には、散乱した死体の残骸が昨夜来の雨で洗われ白茶けて見えるのも本当に哀れで、そのむごたらしさには誰もが声が出なかったという。今、八十年前のことを思い起こす時、その状況を書くことすらかわいそうで書き表すことが出来ない有様である》
現場では北村覚太(47)が指揮をとり、直ちに熊狩りがおこなわれた。そして約100間先にあるナラの林に大熊の潜伏しているのを発見し、見事に射殺した。
身長7尺あまり(約2.1メートル)、体重140貫目(525キロ)という巨大な熊であった。光義は母親に背負われて見物に行き、谷間に横たわる熊の死体をマサカリで何度も殴りつける人がいたのを覚えているという。
そして手拭いで鉢巻をした熊沢家の長女が現場に連れていかれ、短刀でのどを突いてとどめを刺し、恨みを晴らした。村民は大いに喜び、万歳を連呼しながら引きあげて、病床の静江に報告した。しかし、静江はその後、経過不良で死亡した。
地元郷土史研究会会員・玉置要一の遺稿にも、この事件についての記録があるが、こちらでは仕留められたヒグマの様子が詳述されている。
《倒した熊を土橇(どぞり)に積み、集まった人々の手によって河原まで運び出し、皮を剥ぎ解体した胃袋を開くと、中から熊沢さんのものと思われる肉片、骨、衣類、蕎麦などが団子状となって出てきた。
さらに皮を剥ぐと、三ヶ所に脂肪の固まりがあり、取り出して割ったところ、中から二十番口径の弾一個、二十八番口径の弾二個合わせて三個の弾丸が認められた。
過去に何回か、どこかでうたれ、傷を負いながら生きのびて来たしたたかな熊と思われ、体重は百二十貫(四百五十キロ)あったと伝えられている》(『アイペップト 第2集』愛別町郷土史研究会)
加害熊はやはり手負いであったわけだが、実はこの事件の1年前、近隣の剣淵村和寒で、やはり男性1名が喰われている。
大正元年8月28日、上川郡剣淵村字和寒原野東6線、河野農場小作人・中野信明(44)が、朝9時頃、長男・勝男(14)と魚釣りに出かけ、和寒川上流の河岸の畑でみみずを掘っていると、西南の山中より大熊が現れたので夢中で逃げ出したが、信明は子供より2間ほど遅れたため、熊に追いつかれ、そのまま喰い殺された。
勝男は200間ほど先の伯父宅に駈け込み、村民が小銃そのほかを持って現場に駆けつけると、信明が追いつかれた場所から約50間(約90メートル)西方に大熊がいるのを発見し、同日午後3時頃射殺した。
被害者は熊に首をつかまれ木の根に打ちつけられ、脳震盪を起こして絶命したものらしく、熊はさらに約100間(約180メートル)山中に引きずっていき、右大腿部から腰骨まで全部喰い尽くし白骨が露出していたという(『北海タイムス』大正元年9月1日)。
この記事では加害熊は射殺されたとしているが、殺した個体の特徴に一切触れられていないのが少々不可解である。このヒグマが本当に加害熊だったのかどうか、今となっては知る由もないが、筆者は愛別事件の加害熊と同一個体であったと考える。以下はその理由である。
地図を見れば一目瞭然だが、愛別町中央と剣淵町和寒東6線は、直線距離で15キロ程度にすぎず、和寒川を支流とする天塩川流域と、愛別町が属する石狩川流域は山ひとつ隔てた表裏一体の関係にある。この中間に位置する山岳地帯を、ヒグマが悠々と行き来していたことは、以下の記事でも知られる。
《三日上川郡和寒地方に二頭の小熊を引き連れたる二頭の大熊現れ付近を荒らして、さらに愛別村字ダンゲサワに出でたるを住民の手にて銃殺》(『小樽新聞』明治44年5月6日)
もうひとつ興味深い事実がある。
和寒の事件では父子が襲われたが、愛別町事件でも父子が狙われた。母親の出現は加害熊にとって想定外だったと見ることもできる。
さらに不可思議なことは、喰われたのは父親の熊次郎だけで、長男と母親は排除の対象にとどまっていることである。前出の玉置要一の遺稿には《子どもの泣き声は一晩中聞こえたが、朝方になって聞こえなくなった》との証言が収録されている。泣き叫ぶ男児にはまるで関心を示していないのである。
つまり、加害熊がエサと見なしたのは成人男性であり、その嗜好は、和寒で中野信明を喰ったことで決定づけられたのではないか。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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