南樺太(現サハリン島の南半分)は、日露戦争後の明治38年(1905年)以降、約半世紀の間、大日本帝国が占領統治した。
同島は北海道と同じく大自然の宝庫であり、ヒグマの密生地帯であった。
樺太のヒグマはおとなしく、人間に向かってくることは滅多にないと長らく言い伝えられてきた。しかし、筆者が地元紙『樺太日日新聞』(明治43年~終戦)をほぼすべて閲覧した印象では、決してそんなことはない。
冬が長く、夏の極端に短いこの地方では、いったん果実が不作となると、里に下りて見境なく牛馬を喰い殺し、場合によっては人間をも襲った。
樺太庁管轄のため、北海道庁の統計資料に出てこない、従って専門家の間でもほとんど知られていない、樺太における人喰い熊事件はいくつもある。今回はそれを紹介していきたい。
■雨竜人喰い熊事件(大正12年)
雨竜村は樺太南部の港湾都市・大泊の南西にあった。
大正12年(1923年)、この村で起こった人喰い熊事件の一報は次のようなものであった。
《雨竜方面の熊の出没甚だしく二名の杣夫(そまく=木こり)喰殺さる 内雨竜方面には近来熊の出没甚だしく三十日に一人、三十一日に一人、去月末に二人の杣夫が喰い殺されたので目下警戒中(後略)》(『樺太日日新聞』大正12年11月3日)
10月30日午前9時頃、雨竜奥の三尺山から1頭の巨熊が現れ、通行中の三浦静観(33)を喰い殺した。30分後に杣夫某が発見通報し、杣夫たちが熊の捜索に出かけたところ、大宮松太郎(40)が熊を発見し、身を挺して熊に組みつき大声をあげて応援を求めたため、他の杣夫が鉄砲を射かけたところ、熊は大いに怒って大宮を投げ出し、発砲した者に向かったため、一同は一目散に逃げ帰った。
翌31日、再び杣夫たちが熊狩りに出かけたが逆襲され、三粕新吉(37)が噛み殺されて山に持ち去られた。
さらに翌11月1日、懸賞金90円で和人猟師とアイヌが雇われた。そして午前10時頃、ようやく加害熊が射殺された。
被害者の死体は検視されたが、三粕は咽喉部を噛み切られただけで即死しており、三浦は首と足の一部を残し、その他は全部喰われてしまって何も残っていなかった(『樺太日日新聞』大正12年11月11日)。
実はこの事件の2カ月ほど前、雨竜村近くの留多加町でも、村人1名が喰い殺されている。留多加の小里牧場で一晩に牛3頭がとられたので、経営者の高橋六平が18になる息子と朝鮮人を連れ、三方に分かれて熊をたずねて山に入った。
やがて高橋が熊に出あい発砲したが、折悪しく不発だったため無惨にも熊の鋭い爪に引っかかれて死んでしまった。息子と朝鮮人は晩になっても主人が帰らぬので翌朝さっそくたずねていったが、高橋はもう硬直していた(『樺太日日新聞』大正12年9月21日)
後の報道によれば、この事件は同一個体によるものと報じられており、犠牲者は3名となった。
樺太の開発は、北海道よりおよそ四半世紀遅れて進められたが、北海道でヒグマの出没が一段落する昭和初期頃から、樺太での人喰い熊事件が増加し始める。そして、年を追うごとに残虐さを増していく。
その大きな理由のひとつが紙パルプ工業の発展だろう。材料となる原木が大量に伐り出され、流送されて河口の網場(アバ)に貯木される。網場はサケマスの遡上を阻害する。当時の新聞に、「飢渇に苦しむ樺太の熊」と題した注目すべき論考が掲載されている。
《(前略)彼等の常食は河川を遡上する鱒鮭等その他の魚類が主であった。しかるに近年虫害木の伐採で年中盛んに流送が行われ、魚族の産卵床は傷つけられ川口はアバで止められたために魚族はほとんど川上へ遡上しなくなったので彼等のためには飢饉である。
のみならず本月一日杣夫を食った熊は射止められたが、それを解剖すると彼は八個の実弾を受けており、そのうち五つは新しく二つはすでに癒え、一つは化膿しつつあったことが判明した、故に彼は手負いであったのである。》(『北海タイムス』大正12年11月19日)
■敷香人喰い熊事件(昭和7年)
昭和7年(1932年)は南樺太全域でヒグマの「暴れ年」であった。なかでも北部の中心都市・敷香周辺でヒグマの出没が相次いだ。当時の新聞記事をいくつかあげてみよう。
《数日前、上敷香殖民地において野熊のため三名もかみ殺された事件があり、奥地住民は恐怖を抱いている折も折、また鮮人一名がかみ殺された事件があった、二日午後七時ころ鮮人金田某が馬車で物資運搬中、敷香町大字保恵をはなる北方約二里の地点の国道で突然巨熊現れその場にかみ殺された(後略)》(『樺太日日新聞』昭和7年10月7日)
《十一日午後四時頃、敷香市街より約十丁南方の海岸に熊二頭が現れ、しかも悠々と寝そべっているため自動車も馬車も人も通行することができず、遙か離れてアレヨアレヨと傍観するばかり(後略)》(『樺太日日新聞』昭和7年10月13日)
《十三日夜七時ころ巨熊現れ放牧中の馬一頭を殴り斃(たお)しその肉を喰らい、さらに敷香市街から約十町の軍道筋にある樋口搾乳場の乳牛一頭も行方不明(後略)》(『樺太日日新聞』昭和7年10月18日)
《敷香郡字気屯部落の人與田栄作(三三)は二十七日午後六時頃、推定六才位の巨熊に襲撃され顔面および腹部左脚部等を喰われ無残な横死を遂げた。遭難死体を発見した部落民等はその仇を討つべく大挙猟銃をもって出動捜索中、前記巨熊を死体付近の叢林中において発見、いったん取り逃がしたが三十日午前七時ついに射殺(後略)》(『樺太日日新聞』昭和7年11月3日)
このなかで注目されるのが、上敷香における「野熊に3名かみ殺された事件」である。
同事件については『遙かなり樺太 樺太警友の手記』(樺太警友会北海道支部・札幌フレップ会、1980年)所収の「人食いグマ退治」(佐藤宗之進)に詳述されているので、以下に略記してみる。
昭和6年(筆者注:7年の記憶違いか)9月30日の午後、上敷香東方2キロの開墾地で菓子行商の老婆と鉢合わせした熊が敷香川へ逃げ、流送作業中の人夫と出会った。
屈強な人夫頭がトビ口(伐木作業に使う道具)で熊の横腹を突いたところ、熊は川を渡って対岸の燕麦(オーツ麦)畑に逃げ込んだ。騒ぎを聞きつけた農夫が村田銃を射ちこんだが逆襲され、全身を噛まれて死亡した。
熊はさらに地続きの森林内に入り、伐採作業中の杣夫3名を襲撃、2名が死亡した。午後8時頃のことであった。翌10月1日、地元ハンターらが熊を射止めたが、襲われた杣夫2名は全身を食い荒らされた無惨な死体で発見された。
《射止めたクマを河原に運び、ハンターたちの手で解剖して見ると、クマの腹の中には、杣夫の頭の皮、内臓、ゴムぐつの切れはしまで入っていた。そのほかにサナダ虫が金だらいにいっぱいも出て来た。
(中略)樺太にすむヒグマは、人間を襲わないと言い伝えられていたが、手負いになると例外で、短時間に一頭のクマに三人も食い殺されたのは珍しいことであった。このクマは雌で四歳くらいだとハンターたちは話していた》(『前掲書』)
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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