牛殺しのヒグマ「oso18」が話題になっている。
報道によれば「oso18」は体長3メートル、体重300~350キロという巨大なオスで、ネーミングの由来は、標茶町オソツベツの牧場で牛が喰い殺され、残された足跡が18センチもあったことによるという。
標茶町に出没し始めたのは2019年のことであった。それ以来、同町から厚岸町にかけての牧場で、すでに65頭もの牛が襲われたという。ちなみに偶然にも、スペイン語でクマのことを「oso」という。
実はこの標茶町から厚岸町にまたがる一帯、特に「別寒辺牛」といわれる地域では、明治大正の頃から、不思議なほどに人喰い熊事件が多発していた。筆者の手元にある古い資料では次のようなものがある。
《釧路国厚岸より標茶に到る新道路は近ごろ開削した通路だが、この辺は熊の出現がはげしく、往々通行人の難渋することがあり、既にこの頃同地方を巡視した、ある理事官が、乗馬が嫌いなので、同所も歩行にて通ったところ、途中右熊に出遭い、直ちに道傍の堰中へ潜伏して、ようやくその難をさけた(後略)》(『函館新聞』明治21年10月21日)
《釧路国標茶に寄留する某旧土人は同地より一里ばかりを隔てたベカンベウシ山に熊が出没して、行人を悩ますのを聞いて、一番功名せんと準備を整え、同山に至ったが、(中略)たちまち土人の両股肉をさらったので、さすがの土人も思わずどうと倒れた。
しかし平素熟練しているので、倒れながらも機をうかがう間もなく熊の舌を引きつかんで起き上がり、熊に自ら舌を噛み切らせようとしたが、かえって頸部を掻き切られ、前に倒れようとする時、(中略)不幸中の幸いにも熊は土人の背中にあった米袋をつかんで人と間違えたのか一目散に駈けて行った》(『朝日新聞』明治28年1月17日)
さらに明治41年、大正4年には死亡事故が発生した。
《菊池福藏(二三)という壮漢が、去月二十六日の夜、牧夫一名と共に小銃を携えて物陰に待伏せていると、案の定襲来したので、両人狙いを定めて一発放つと、確かに手応えがあったので、その夜はそのままにして引揚げ、翌暁に件の場所に至ると、今しも熊は手負のまま福藏の背後から馬乗となり、ところ嫌わず爪を立てたが、福藏もさる者、しばし格闘したものの到底敵すべくもなく、ついに頭脳、前額部、頭頂骨を始め後頭部、左胸部、上肢、両手に重傷を被り、数時間にして落命した》(『小樽新聞』明治41年9月2日)
《首胴四肢の散乱 八日午後一時、川上郡塘路村阿歴内の一農夫は、薪材拾得のため阿歴内森林に分け入ったが、熊笹が繁茂する道を踏み分けると、人間の首が横たわるのにびっくりし、腰を抜かさんばかりだったが、さらに注視すると、その付近に骨となった手足胴体等、各所に散乱しているのに生色を失い、韋駄天走りに帰村したそうだが、過般、厚岸より二名の旅人が、牛を曳いて阿歴内に向かったまま行方不明となり、なお同村一農夫も同様の運命に遭遇せしといえば、たぶんその一人が巨熊のために喰い殺され悲惨なる最後を遂げたるならんかと》(『函館毎日新聞』大正三年四月十二日)
阿歴内は厚岸町の西、塘路湖に近い原野だが、最大で2名がヒグマに喰い殺された可能性がある。
しかし、もっとも有名なのは、大正14年(1925年)に発生した、現役の森林主事が喰い殺された事件である。『熊に斃れた人々』(犬飼哲夫)などを参考に、当時の様子を再現してみよう。
大正14年9月10日、厚岸町糸魚沢の官林視察に赴いた富崎富太郎主事と案内人の一行が、ベカンベウシ川を一里半遡行した地点でヒグマに遭遇した。大声を出したがヒグマはひるむ様子もなく、首を低く下げ、左右に振りながら近づいてきた。
一行のうちヒグマに経験のある者が「あの熊は少し変だから気をつけろ」と警告した。その後いったん姿を消したヒグマは、丘を回って再び一行の行く手を遮り、今度は真正面から近づいてきた。
一行のうち、1名は木によじ登り、3名は草原に伏せたが、しばらくしてヒグマは姿を消し、一同安否を確認したところ、富崎の姿が見えず、30間ばかり離れたところに富崎の帽子と血のついた外套やシャツが見つかり、血痕が藪の中に続いていた。
3名は逃げ帰って急報し、翌日60余名の捜索隊が出て、大腿部を喰い尽くされ、草土で埋められた富崎の遺体を発見した。
さらに9月24日、隣村の厚岸郡太田村から三里余の字チャンベツの造材小屋付近で、同一個体と思われるヒグマによって杣夫(木こり)ら4名が襲われ、1名が負傷するという事件が起きた。
付近集落では学校が休校となるなど、《人心は恐怖と不安に駆られ》(『小樽新聞』大正14年9月27日)、大規模な熊狩りが計画され、また加害熊には懸賞金がかけられた。
この噂を耳にしたのが土佐藤太郎、通称「為作おど」というアイヌの熊撃ち猟師であった。「為作おど」が、件の人喰い熊を撃ち取る手柄話は『開村五十年製糖工場新設標茶記念誌』の「為作おど 塘路のチャチャの話」に詳述されているので以下に摘記しよう。
為作おどが、捜査本部ともいうべき造材小屋にのっそりと顔を出すと、4〜5人の男たちが、冗談を言って笑い興じていた。白茶けた旧式の村田銃を手にした為作おどに、声をかける者は誰もいなかった。
無言のまま聞いていた為作おどであったが、「ガサリ」という音を聞いた途端、目が爛々と輝いた。
多年の経験から彼の耳は《震妙神の如き耳》になっていた。やおら旧式銃を取り直して、じっと外をうかがった。人々の談笑は続いていたが、為作おどは、あえて「それ」を知らせなかった。騒がれれば取り逃がす恐れがある。
そして2歩3歩と戸外へ出た。はたして目の前に希代の大熊が牙をむいていた。為作おどのただならぬ様子を訝しんだ人々は愕然とし、色を失ってその場に立ち尽くした。
《熊は気合いと共に、その大きな前肢をあげて立ち上がった、間髪を入れず轟然たる響きと共に巨熊の体は横合いの谷に駆け下りた、手早く二弾をこめて為作おどはその横から更に一発見舞った、さすが獰猛な奴も痛手にひるみ、物凄いうなりと共に倒れた。漸く我にかえった人々の喜びとも安心ともつかぬ絶叫は附近の山々にこだまして響き渡ったのであった》(『開村五十年製糖工場新設標茶記念誌』)
この見事な金毛の雄熊は体長2メートル、体重300キロの大物で、解剖したところ、為作おどの両弾は熊の両肺を、まるで定規を当てたように、正確に×印に打ち抜いていたという。
100円の賞金を手にした為作おどは、件の巨熊を汽車に積んで塘路へ帰ると、ここで凱旋勇士のような歓迎を受けた。為作おどは終始黙して多くを語らなかった。その後、おどは猟はやめてしまい、今まで手にかけた熊の後生を弔ったという。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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