北海道の開拓が進む明治30年代には、道央の深川から、滝川、砂川、そして旭川にかけての一帯で人喰い熊事件が続発した。
そのなかで、もっとも奇怪なのが、次の事件である。まずは当時の新聞記事を見てみよう。
《雨竜郡深川村字イチャンより滝川兵村に至る、およそ二里の国道は、近来、夜中通行を杜絶しているようだが、その由来は、深夜にこの道路を通行した者が、一人として無事に目的地に達した者がなく、ツイこのほども、同地のアイヌ某が変化(へんげ)の正体を認めてやろうと、装薬の猟銃を携え、単身これに向かったが、翌朝に至っても帰って来ないので、所々捜索してみると、無惨にも、わずかにその頭部を残すのみで、かのアイヌは全身、何者かに喰い尽くされていたという。人家稀なる道路なので、おおかた熊などの出没せるものであろうが、いまだにその正体を見届けた者はなしとか》(『北海道毎日新聞』明治34年11月22日)
複数の人間が、おそらくはヒグマに襲われて消えているというのである。まさに奇々怪々「人間の紛失」事件だ。当時のこの地方の悪路が相当なものであったことは、以下の記事からも知ることができる。
《雨竜郡深川地方における道路は、しばしば本紙に記す通りだが、その後の雨と雪にて、さらに大悪路となり、物貨の運搬ほとんど杜絶の有様なので、運賃の騰貴はもちろん、当時においては米穀の供給を欠くに至ったと》(『北海道毎日新聞』明治29年12月3日)
一朝、雨が降ると、ぬかるみで膝まで没することもたびたびであったというから、人の通行も稀であり、人喰い熊が潜んでいてもおかしくはない状況であった。
実は、この事件の直後に、旭川近郊の鷹栖村で凄惨な人喰い熊事件が起きている。
当時の新聞記事を以下に見てみよう。
オサラッペ15線在住の辺見善蔵(39)が、知人宅へ用事で出かけ、午後9時頃に帰途についた。
翌朝、田中農場の小作人、彦兵衛という者が、善蔵の家に行こうと16線13号を通りかかると、《いまや大熊は人を捕らえて鮮血をなめすすりつつ、サモうまいうまいと喰らいおり、その彦兵衛を見るや否や、目を怒らし牙をむき、まさに飛びかかろうとする勢いなので》彦兵衛は一目散に逃げ帰って事の次第を話して、その場に気絶してしまった。
駐在所が直ちに出張して取り調べたところ、《血痕は枯草朽木を染め、血に塗れた衣服はずたずたに喰い裂かれ、点々ここかしこに散乱しており、ことにその死体を引きずった痕跡をとどめているなど」、実に目もあてられぬ惨状であった。
さらに《死体は頭部に数ヶ所の爪で割いた傷あり、頸骨は噛み砕き、右の肩胛部は爪で二ヶ所に穴を穿ち、窩の下部より膝蓋骨までは、ことごとく喰い尽くして、余肉をとどめず、両脛および右の上膝骨のみ、わずかに存していた。眼窩は二つながら陥没し、顔面の所々に爪傷があった》というものであった(『北海道毎日新聞』明治34年11月26日)
この事件は地元で長く言い伝えられたらしく、次のような談話も残っている。
《十七線十一号の福原与平さんの家で一杯いただいて酒の酔いも廻っておばあさんが「泊まってゆきなされ」というのもきかず、ほろ酔気げんで夜の道へと出ていったと。
あさ、「大変だ、誰かが熊に食われておるぞ」隣の佐平さんがころがりこんできたと。
与平さんが現場にかけつけてみると、モンペと上衣は引きさかれ、頭の一部分と腕とひざから下だけが残っていた。辺見さんだとわかったのは、頭の部分に白髪があること、衣類が同じだったからだと(後略)」(たかす民話の会『たかす昔ばなし』)
加害熊は、松井清作ら3名が重傷を負いながらも見事に討ち取った。身長9尺の巨熊であったという(『北海道毎日新聞』前掲)。
『鷹栖町郷土誌 オサラッペ慕情』によれば、加害熊は150貫という巨大なもので、ケガをした松井は全身40数カ所の傷を負いながらも生きながらえたので、「熊のクイカス」と仇名されたという。
辺見さんの妻こなみさんは、《わたしのおとうさんを喰った憎ッくき熊、仇討ちに一番先にその肉をたべさせて下さい」となみだをボロボロ流しながら熊の肉をたべたそうな》(たかす民話の会『たかす昔ばなし』)。
事件の経過から、加害熊は最初から辺見をエサと認識して襲った可能性がある。以前に人肉を喰らった経験があったかもしれない。深川-滝川間で発生した「人間の紛失」事件から、わずか数日後でもあり、アイヌを喰った加害熊が、猟師に追われて北上し、辺見の事件を起こした可能性もある。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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