国内において、記録が残るなかで最悪の人喰い熊事件は、8名が犠牲となった「苫前三毛別事件」である。しかし世界では、12人が殺害され、24人がケガを負った未曾有の人喰い熊事件が起きている。インド南部マイソール地方で起きた事件がそれである。
この事件を記録したケネス・アンダーソン(1910-1974)はスコットランド系移民で、インド南部の中心都市バンガロールに長く暮らし、野生動物についてのいくつかの書物を残した。
彼が目の当たりにした「マイソールの人喰い熊事件」とは、いったいどんなものだったのか。彼の著書『MAN-EATERS AND JUNGLE KILLERS』(1957年)所収の「ALAM BUX AND THE BIG BLACK BEAR」より摘記しながら事件を追ってみよう。
事件を起こしたのは「ナマケグマ」という種類の熊で、体長140~190センチ、体重55~145キロと推測される。日本のツキノワグマと同程度の体格と言っていい。ケネスによれば、「興奮しやすく、信頼性が低く、性悪」であるという。現地住民は野生のゾウと同様に、熊に対しても最大の敬意を払っていたが、この凶悪熊だけは例外であった。
この熊はもともとバンガロールの北西アシケレという町の丘に住んでいたメス熊で、一説によれば、人間に仔熊を奪われた経験から人間に復讐するようになったという。また事件が起こる1年前、山羊を放牧していた娘が熊にさらわれる事件があり、この娘を村人が奪い返したことから、報復として人間を襲うようになったとも言われる。ケネスは、この熊が手負いであったと推測している。
ケネスは1年前から、この熊の噂を耳にしていたが、野生動物による人身事故は誇張されることが多いため、たいして気にもとめていなかった。
しかし、彼の古い友人で、アシケレ郊外に住むアラム・バックスという老人の息子が襲われ死亡したことで、この事件に関与することになったという(つまりこの時点で、すでに複数の人間が襲われていたようだ)。
アラムの2歳になる息子は、夜9時頃、家の外でイチジク畑を荒らしていた熊に顔面、胸、肩、背中などを引っ掻かれ、あらゆる布を鮮血に染めたあげく出血多量で死亡した。
2日後にアラムからのハガキを受け取ったケネスは、さっそくアラムの家に向かった。そして夜になるのを待って駆除に出かけた。イチジク畑の中を3マイルも歩き回ったが、熊の兆候は見られなかった。懐中電灯に照らされた動物の目が再三光ったが、それらは熊のものではなかった。
翌日、ケネスは丘の上にある熊の住む洞窟に向かった。50ヤード(46メートル)ほど先の岩棚の下に洞窟があり、内部を伺って石を投げ込んでみた。しかし、反応はなかった。熊はすでに洞窟にはいなかったのだった。
次に届いた報せは、アシケレの北東20マイルにあるサクレパトナという、ジャングルに囲まれた小さな町の郊外で、伐採作業員2名が熊に襲われ、そのうち1名が後日死亡したというニュースだ。ケネスは、森林管理事務所から熊の駆除を依頼された。
ケネスはその熊が、例の人喰い熊だと直感した。
10日後に再び報せが届いた。それによると、町から3マイル離れた丘の上の洞窟にこの熊が住み着いているらしいこと、また湖に続く歩道にたびたび出没し、再び森林警備隊が襲われたことが記されていた。
ケネスはサクレパトナに向かい、森林管理事務所が所有する避難小屋に数日間滞在することにした。
幸か不幸か、翌日の午後に男が小屋に駆け込んできた。熊の棲みかと覚しき丘の近くで、牛を放牧していた兄弟が襲われたという。悲鳴が熊の唸り声と混ざり合い、彼は兄弟を待たず、丘を下って逃げてきたのだと語った。
熊は本質的に夜行性の動物であり、日中は決して動かない。せいぜい夕暮れ時か夜明けに出会う程度である。おそらく不幸な牧夫が熊の眠っていた場所に近づきすぎて攻撃されたのだろうと判断した。
午後4時30分頃、ケネスはライフルと懐中電灯を持ち、3~4名を従えて出発した。6マイル近くも歩いた頃、竹林の茂みに被われた丘に到着した。18時頃だったが、冬なのであたりは暗くなってきた。
連れてきた男たちは「これ以上進みたくない。捜索は明日の朝にしよう」と言い出した。行方不明の男の兄弟も、みなが立っているところで待つと言い出した。あまりにも熊を恐れていた彼にできることといえば、せいぜい助けを呼びに行くことくらいだった。
ケネスは1人で藪の中に踏み込み、大声で襲われた男の名前を呼びながら前進した。この頃にはほとんど暗くなっていたが、懐中電灯を照らしたので迷うことはなかった。
藪の密度がいっそう濃くなり、それ以上進めなくなったところで、ケネスは引き返そうとした。そのとき、遠くにかすかなうめき声が聞こえたと思った。うめき声は谷のくぼみのどこかからから聞こえてくるようだった。ケネスは藪の中を突進し、100ヤードほども進んだところで、ついに男性を発見した。
《木の根元に横たわる彼は、血の海の中にいた。顔は生肉と折れた骨の塊のようだった。唯一彼が生きているとわかるのは、凝固した血液の中に空気が泡立つためだった。熊は爪で腹を割いたので、肉が裂けて腸がはみ出し、ほとんど意識もなかった》
状況は危機的だった。一夜の野営は、男性を死に至らしめるだろう。運ぶ以外に選択肢はないが、悪いことに、ケネスは足を滑らして左足首を捻挫してしまった。
男性を担いで1時間歩いたところで、ケネスは死に行く男との野営を決意した。懐中電灯の電池を節約しながら朝を待った。気温はどんどん下がり、うめき声はますます弱くなった。そして午前5時頃、ついに死んだ。
ケネスは、正午過ぎに救助隊に助けられた。地元の病院に入院したケネスは、歩けるようになったら、すべての問題を引き起こしたあの凶悪熊を絶対に捕まえようと心に決めた。
その間にも、熊は遊んではいなかった。湖の歩道で、さらに2名の男性が襲われた。他の熊と同じように、この熊も常に顔を攻撃したため、負傷者の半分が片方または両方の目を失い、幾人かは鼻を失い、他の者は頬を噛みちぎられた。
それらの人々と一緒にいた人々も頭からほとんど引き裂かれて死んだ。また地元の噂では、最後に襲われた3人は部分的にむさぼり食われていたという。
4日後、ケネスはサクレパトナに戻った。
熊は町から約1マイルのところにある畑に出没していた。
午後5時、現場に到着したケネスは、たわわに実る果樹の根元で夜を過ごすことにした。午後11時すぎ、不機嫌そうな唸り声が聞こえた。熊が近づいてくる。熊は頻繁に立ち止まり、落ちた果実を拾い食いしながら近づいてきた。ケネスが潜む果樹にたどり着くまで、たっぷり1時間近くかかった。しかし、それはケネスが一発で仕止めるのには十分すぎるほどの猶予だった。
星のかすかなきらめきが、黒い塊を浮かび上がらせた。ケネスは懐中電灯を点灯した。ビームが当たった瞬間、熊は後足で立ち上がった。闇の中にはっきりと浮かび上がった白い月の輪に、ケネスは狙い澄ました弾丸を撃ち込んだ。それが凶悪熊の最期だった。
最後にケネスはこう記している。
《クマは一般的に無害な生き物である。しかしこの熊は、なんらの挑発も受けていないにもかかわらず、最も残虐な方法で何人も人間を殺してしまった》
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
外部リンク