ヒグマはどれほど怪力なのか…明治30年には罠にはまって12トンの重荷を支えたことも
《私が占守穴居中、ある日海岸を歩きしに、3間(5.4メートル)余の海馬の死体が漂着して砂上に打ち揚がりてありましたが、その日は処々(ところどころ)跋渉して穴小屋へ帰り、翌日またまた該海岸を跋渉しつつ海馬漂着のところに至りましたが、前日の海馬はありませんから不審に思い、処々捜索しておりますうち、その辺の砂上、頗(すこぶ)る乱雑になって、浜沙がみな掘れてあるから、その有様をよく熟視すると例の剛熊の仕業ということがわかりました、その辺浜沙の掘れてあるのは奴の足跡です、それより漸々(ぜんぜん=おもむろに)足跡を検しましたところ、断崖たる丘腹までありまして、その丘腹のわずかに凹んだ箇処に彼の海馬の死体を横たえ、その上に雑草を覆ってありましたので、奴の金剛力に感心しました、たいてい馬の体量70~80貫目(約260~300キロ)ありますが、この3間余の海馬はどんなに軽く見積りても200貫目(750キロ)内外はあるのです、それを熊が、しかも断崖を担って上ったというのは驚くべき力です》(『千島探検録』白瀬矗、漢数字を算用数字に修正)
《保多の沢には、巨熊が出没するので、札塔に出て大泊に陸行する外は、沢の奥深くに進むことはなかった。
「ペルシュロン種」は、ばんえい競馬で活躍する大型の馬で、体高2メートル、体重1トンにもなるそうである。
《熊の力と持久力には驚くべきものがある。たとえば、一頭のクマが非常に大きなウシをひきずってぬかるみの川岸を通って対岸に達したばかりでなく、そのうえ、けわしい山を二百メートル以上も登ったことがあった。しかも、ここはシラカバやエゾマツの若木が密生した場所であった》(V・N・シニトニコフ『大陸の野生動物』山岸宏訳)
《北見のある山道で起こった話です。一台の自動車が山狭の温泉宿にお客を迎えに走っていました。ところが道路の真ん中に大きな熊が二匹の仔熊を連れて寝そべって足の裏を舐めながら頑張っているのでした。
《分厚い板をつなぎ合わせて頑丈な一枚の板を作り、下の餌にさわったら落ちる仕掛けをして、その上に叺(かます)詰めの塩三百俵を載せた。塩はニシン塩蔵の加工用で、一叺の重さ約四十キロ、総体でおよそ十二トンの重量が載った計算だ。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。