冬ごもり中のクマを鉄砲や毒矢で捕殺することを「穴熊狩り」といい、アイヌやマタギの間では古くからの有効な手段であった。
『開拓秘話 北海道熊物語』(宮北繁)に、「穴の中で熊と格闘」という、ハードボイルド小説のような挿話があるので、以下に紹介しよう。剣淵村の田中良範氏が語ったものだ。
道東、阿寒湖畔に熊蔵という熊狩りの名人がいた。明治33年(1900年)頃、熊蔵が60歳になろうという年の冬のことであった。道庁の役人が熊蔵を雇い、穴熊狩りに出かけた。熊蔵の案内で熊穴を見つけたところで、役人がハッと銃をかまえると、熊蔵は落ち着いた様子で笑った。
「あははは、まだまだ大丈夫です。旦那、手伝ってください」
そして立木を払わせ、穴の斜面下方に柵を作らせた。それから熊蔵は銃床をはずした旧式の先込銃を手に、役人が制止するのも聞かずに熊穴に入っていった。
熊蔵は雷管に火が回っているのを確かめた。「ふっ、ふっ」という荒々しい息づかいがして、巨大な体がもっそりと近づいてくるのが、かすかに見えた。「うおーっ」という凄まじい怒号とともに、熊が大口を開けて襲いかかってきた。熊蔵が短くした銃の筒先を熊の口に押し込むと、「がりりっ」と鉄を噛む牙の音がした。
熊が銃身に前肢をかけた瞬間、熊蔵は石を振り上げてガチンと雷管を叩いた。「があーん」という凄まじい銃声が洞窟に轟き、巨大な体がゴロリと倒れて息絶えた。素晴らしいオス熊であった。
用意した麻縄で四肢を縛り、熊穴から出て来た熊蔵は「へっ、もろいもんだ」と、眼を細めて笑った。役人らに縄を引っぱるように伝えて、熊蔵は穴に取って返し、熊の後ろからウンウン押し始めたところ、尻をがぶりと噛みつかれた。
なんと、熊穴にはもう一頭メス熊がいて、仇討ちに飛び出してきたのであった。熊蔵が負けじと熊にかぶりつたので、熊は前肢で熊蔵を抱え込み、そのまま穴を転がり出て、上になり下になりメチャクチャに転げ回った。
メス熊が熊蔵を雪中深くおしつけた。そのときであった。ぎらりと熊蔵の短刀が光った。メス熊は前にのめり、横っ腹から血がふき出した。
熊蔵がひらりと飛び起きた。と同時にメス熊も猛烈な勢いで熊蔵の横面をたたきのめした。鮮血がさっと飛んだ。鋭い爪にかきむしられた頬の肉、右の目玉が飛び出し、よろよろと倒れかかった熊蔵がふみこたえると、弾き返すように横なぐりに振った短刀がメス熊の喉笛を貫いた。どっと雌熊が半身を雪に埋めて倒れた。それと見た熊蔵は急に気がゆるんで、どっと横に倒れて気をうしなった。
熊蔵は数日経って元気を回復した。そして、その後もしばしば大物を仕止めては里へ下りてきて、米や味噌と交換していた。だが、しばらくして姿を見せなくなった。とうとう熊にやられて死んだのか、それとも山奥で暴れ回り、寿命が尽きて死んだのか。確かなことは誰も知らないという――。
『富良野こぼれ話』(富良野市郷土研究会)にも、穴熊狩りの話題がユーモラスに語られている。
昭和の初め頃、富良野市の佐藤利重は同僚の山田大助とともにイタヤカエデの樹液を採りに山に入ったところ、泥んこの足跡が雪上に残っているのを見つけた。どうも子熊のようで、恐怖よりも生け捕りにしようという思いが先立って、熊穴を探し始めた。
間もなく急勾配の斜面の大木の根元にそれらしいものを見つけた。案の定、熊がいたのである。だが、突如、その穴から大熊がとび出し、一目散に沢を下り遁走していった。
普通ならここで逃げ帰るところだが、2人は長い棒で穴の奥をつつきはじめた。確かな手応えがあった。まだ熊がいるようである。さっそく丸太で穴の入口をふさぎ、焚き火の準備をしていると、隙間から子熊が顔をのぞかせた。かんじきのヒモで投げ縄を作っても思うようにいかない。
そこで煙による「いぶし」ということになった。穴の前に焚き火を起こし、熊穴の天井あたりを棒でつついて煙出しの穴を作り、あおいだところ、見事に成功した。
間もなく、天井の穴から子熊がぬーっと顔を出した。見ればかなりの大物である。あわてて手に持っていたマサカリで力いっぱいなぐりつけた。そうとうの手ごたえがあり、やれやれと思ったとたん、又ぬーっと顔を出してきた。再び「ゴツン」と一撃、これで子熊もまいったらしい。
山田氏がおもむろに穴に入ってみると、そこには子熊が2頭いて、折り重なってグッタリしていた。この快挙は、近隣でも大きな話題となり、現場の大木には、「此ノ地ニテ、佐藤利重、山田大助ノ両名ハ、熊二頭ヲ捕マエラル」などと墨で記されたという。
一方で、アイヌの間では、熊穴は家またはコタン(集落)の財産であり、抜け駆けすることは固く戒められていた。もし禁を犯せば必ず熊に襲われるという。『熊』(寒川光太郎)に、その一例が紹介されている。
阿寒に音吉という射手がいて、すでに150頭あまりの熊を捕っていた。12月のある日、桂の木の根元に大きな熊穴を発見したので、コタンに戻って報告したが、金に困った音吉は、その年の暮れにコッソリと狩りに出かけた。
しかし、偶然にも熊は穴の外にいて、背後から音吉に襲いかかった。音吉はマキリ(狩猟刀)を抜く余裕がないと見るや、咆哮する熊の口の中に手を突っ込み、敵の舌を引っ張り出した。熊は苦しまぎれに舌を噛み切って遁走した。
背中を一撃された音吉も重傷で、麓のホテルまで雪の中を這っていった。彼の髭は凍った血で固くなっていたという。そこから馬ソリに乗せられて病院に運ばれた。そして数日のうちにケロリと治ったという。
一方のコタンでは、音吉の抜け駆けを認めたものの、すぐに部落総出で復讐の熊狩りに出かけ、ついに4日めにして倒すことができた。毛皮はホテルの主人が買ったが、価格は1枚100円が相場のところ、250円だったというから、ずいぶんと大きな熊だったのだろう。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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