北海道の士別・剣淵地方はヒグマの通り道として地元ではよく知られており、人身事故も多発した。
《大正十年頃、東和の亀岡さんは、家族の止めるのも聞かずに、ヤマメ釣りに行って熊に食われた。(中略)元、和寒町長南雲さんの先代も東和で熊に襲われたような記憶があると話していた》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「回顧 皆川勇」)
東和、大成は剣淵町と和寒町の境界に位置する地区で、文中にある南雲がヒグマに襲われた事件は、当時の新聞で見つけることができた。
《大正三年八月二十二日、剣淵村会議員南雲源太郎(四十二)は、役場官吏等と和寒原野第六線付近の作付け反別調査に赴いたが、突然暗中より巨熊現れ、南雲は逃げ場を失い熊のため腹部、面部、右大腿部等を引っ掻かれその場に倒れた。掻傷裂傷等十数個所の重軽傷を受け、病院に担ぎ込まれた》(『小樽新聞』大正3年8月24日)
一時は「生命に別条なし」と伝えられたが、佐藤ヤエ子によれば、南雲は入院から3日後に死亡したという。
《(南雲を)トロッコで和寒駅まで運び、汽車で旭川の病院に行きました。が、入院して三日目程で亡くなったそうです。(中略)国見さんの話では、二人で分かれて線路沿いの林の中に入りましたが、南雲さんは入って間もなく、急に目の前に熊が現れ、鉄砲を撃つ間もなかったそうです。
南雲さんの叫び声で国見さんが駆けつけた時には、南雲さんは熊と四つに組むような形で『早く撃て!!』と叫びましたが、危なくてなかなか撃てず、側に寄ってやっと二発で仕留めたそうです。南雲さんは背中を二回殴られて、背骨が出ていたということです》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収、「戦争の傷あと 佐藤ヤエ子」)
この地域では、ほかにも長く語り継がれる人喰い熊事件がいくつも起きているが、そのなかでも強烈に人々の記憶に焼きついたのが、大正6年(1917年)に剣淵町で起きた人喰い熊騒動である。この事件はヒグマが開拓小屋に押し入るという恐るべき凶悪事件であった。
■剣淵人喰い熊事件(1917年)
事件の第一報は、農作業の青年が帰宅途中にヒグマに襲われたというもので、さほど珍しい事件ではなかった。
青森県三戸郡より出稼ぎのため来道中の柳町市太郎(26)が、11月5日午後8時頃、家まで歩いていると、突然草むらから1頭の大熊が現れ、驚く市太郎を拉致した。悲鳴を聞きつけた村人は直ちに現場に向かったが姿は見えず、わずかに掻きむしられた衣類が残されていたのみで、死体は見つからなかった(『北海タイムス』大正6年11月10日)。
しかし、時間の経過とともに事件の真相が明らかになった。ヒグマは通行途中の青年を襲ったのではなかった。民家の壁を破り、押し入ったことが判明したのである。この熊は、しばらく前から、各所に出没して農作物などを荒らし回っていた。
《去る六日夜八時頃、同地一号線、市田某方で一家晩餐中、庭先で異様な物音がするので何事と見れば、一頭の巨熊が庭に積んであるカボチャを喰っているので大騒ぎとなり、六畳間に一同引き籠もり、鉞(まさかり)を握って生きた心地もなかった。幸い熊はそのまま草むらに姿を没した。
翌日の七日午後七時頃、柳町市太郎が独り夕飯を食していると突然、前記の大熊が草壁を突き破って侵入し、市太郎に飛びかかった。市太郎は卒倒せんばかりに驚き、声を限りに救いを呼びつつ近所の安井某宅目がけて逃げたが、遂に捕らえられた。
安井某は市太郎のけたたましい悲鳴に驚いて窓から眺めると、熊は市太郎の背中から猛然と躍りかかり、その両足をつかんで風車のごとくクルクルと廻しながら、悠々と草むらに姿を隠した。身の毛もよだつこの恐ろしい現場を目撃しながら、農家のこととて手の下し様もなく、悲鳴の遠ざかり行くのを聞くのみであったという。
八日朝になって、駐在巡査と部落民が大挙、死体捜索に努め、玉木猟師の弾丸が美事に命中して首尾よく捕獲することができた。市太郎の死体は被害地から五百間(約九百メートル)の箇所において、わずかに頭と手足とのみを喰い残し一面に鮮血にまみれた凄惨な状態で発見され、見る者の肌に粟を生じさせた》(『北海タイムス』大正6年11月27日)
玉木は「自分は今まで80余頭の熊を打ち取ったが、今回ほど獰猛なのは始めて」と語ったという。この事件は目撃者も多く、古老の回想にも散見される。
《明日帰るという前の晩なので、賃金の精算のためかもらい風呂かで招かれたのですが、そのうちの一人が風邪で休んでいました。その小屋は、現在の安田嗣信さんの近くでした。その晩は月夜だったと思います。
(中略)その人の「助けて……!!」という叫び声は、今でもはっきり覚えています。その頃は雪も降っていて、人は道伝いに走って逃げるのですが、熊は雪などおかまいなしに斜めでもどこでも、最短距離を通って追いかけ、ついにこの人はつかまり、無惨にも殺されてしまったのです。
次の朝、おそるおそる出て見ますと、うすく降り積もった雪の中を、二メートルも、三メートルもの広い大きい足幅で、人を追いかけた熊の足跡があり、その追いかけたいきおいの鋭どさ、激しさを、あらためて知りました。
そして、食い殺したと思われる場所と、少し離れて遺体のあった道すじの間に、細くて長い腸のようなものが鮮血と共に落ちていました》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「十津川団体に出た人食い熊)
《私は二歳でしたが、母はその時恐ろしくなり、私と兄の二人を自分が嫁入りの時持ってきた長持の中に入れてかくし、炉の中の火は夜通し燃やし続け警戒したそうです》(剣淵町教育委員会『けんぶち町・郷土逸話集 埋れ木』所収「四区と共に生きた私の歩み 安田嗣信」)
村人の恐怖心がいかばかりであったかが想像される。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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