待ち合わせ場所の事件現場に現われた安藤伸一郎さん(45)は、膝にサポーターを着けた左脚をかばうように歩いてきた。
「これ(サポーター)がないと仕事ができないんです。神経が痺れている感じで……。もう治らないんじゃないかと」
2021年6月18日の朝7時ごろ、札幌市東区の干物製造販売店「ふじと屋」に勤務する安藤さんは地下鉄駅に向かう、いつもの通勤路を歩いていた。
その背後に忍び寄ったのが、体長約1.6mの雄ヒグマだ。
「生まれも育ちも東区ですが、ここらでクマが出たなんて、それまで聞いたことがなかったです。東区には人工の山しかなく、本当に普通の住宅街ですから」(安藤さん)
ヒグマはこの日の早朝から東区内で目撃され、安藤さんより前にも同個体に背中を踏みつけられた軽傷者が出ていた。
「足音もなく、いきなり後ろからドンッときて倒されました。車のような硬さではなかったので、人がぶつかってきたのかと思い、文句を言おうと思ったんです。
そしたら右腕を噛まれ……目が合ったときに、初めて “相手” がクマだとわかりました。その瞬間、死ぬかもしれないと感じて、ずっと『痛い』『助けてー』と、大声で叫んでいました」(同前)
一部始終を近隣住民が撮影しており、SNSやテレビで安藤さんが体験した「ヒグマの恐怖」は瞬く間に伝えられた。
「最初の衝撃では、もう何が起きたのかまったくわからず……。一撃で右側の肋骨が6本折れて、右肺には穴が空いて肺気胸に。背中を80針、両腕両足を60針縫いました。息苦しく骨が折れて痛いうえに、噛まれた箇所からの出血も酷かったです。
いったん、クマは離れたのですが、すぐに戻ってきて再び襲われました。辛うじて丸まって、頭部や内臓を防御する姿勢が取れたのはよかったです。
病院の先生からは『意識がなかったら、そのまま喰われて死んでいたよ』と言われましたね」(同前)
北海道猟友会札幌支部の防除隊隊長を務める玉木康雄さんは、安藤さんを襲ったヒグマの状況についてこう分析する。
「市街地のような、周囲に森らしい森もない環境では、クマはパニックになっています。威嚇されているような気分で、動くもの全部に襲いかかっていく状況だったと思います。
クマは舗装道路やアスファルトに出てしまう時点で、かなりナーバスな状態です。そうなったら、一刻も早く仕留める以外に方法はありません」
2022年末に発表された2021年度のヒグマ捕殺統計によれば、公式記録が残る1962年以降で、最多の1056頭の個体が捕殺された。
2023年に入ってからも札幌、旭川といった都市圏で相次いでヒグマが出没しており、状況は過去最悪といえる。
「2021年、2022年の市街地への出没状況から『今年はマズいのではないか』と予測していました。頭数が増えてきたことは誰の目にも明らかです。
山での食べ物に比べて、人間の食べ物はクマにとって消化がしやすい。だから、味を覚えてしまったクマは山盛りの木の実より、おにぎり1個を食べたくなるんですよ」(同前)
ヒグマの被害では、2019年7月の目撃後から4年にわたり、北海道東部で66頭の放牧牛を襲い続けている「OSO18」の悪名も高い。
人喰いグマ事件に詳しいノンフィクション作家の中山茂大氏は話す。
「戦前はウマの被害が圧倒的で、1頭のクマに何十頭も襲われたケースもありましたが、戦後になるとウシの被害が増え始めます。ヒグマはひとつ餌として捕食すると、その味を覚えてしつこく求める習性があるそうです。OSO18もその習性に導かれてさまよっているのかもしれません」
7月19日、初めてOSO18のカラー写真が公開された。6月25日に標茶(しべちゃ)町の原野の監視カメラが体長2~2.2mの体を大きく伸ばし、木の幹にマーキングをしているOSO18の姿をとらえていた。
しかし、「移動経路のひとつとして特定することはできましたが、それ以上に新たな有力な情報はございません」(標茶町農林課林政係)と、捕獲への道のりは険しい。
5月には幌加内(ほろかない)町の朱鞠内湖のキャンプ場で、滞在中の釣り客がヒグマに襲撃され死亡した。直後に駆除された個体の胃から被害者の肉片と骨片が見つかるなど、道内では衝撃的な事件が相次いでいる。
最後にもう一度、安藤さんの悲痛な言葉を聞いてほしい。
「今も体には痛みがあり、鎮痛剤投与などで通院しています。しかし、札幌市から見舞金などはなく、労災が認められた以外の治療費は自己負担。誰が襲われても補償はないそうです。私は運が悪かっただけなんでしょうか……。こんな被害をなくすために、対策を徹底してほしいですね」
北の大地で今、人間とクマのバランスが崩れ始めている――。
写真・久保貴弘
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