全身にヒグマの爪跡と大裂傷、後頭部は髪も皮もなし…2人喰い殺し8名にケガを【温根別人喰い熊事件】
《去る十日、温根別北十七線鈴木秀助が所要ありて十六線河岸を通行中、傍(かたわ)らの叢中(そうちゅう=草むら)より一頭の巨熊現れ猛然、秀助に飛びかかり重傷を負わせたのを聞き込みたる同村、田薪久吉これを追跡すること五日にして二十四日南十七線青木山にて射止めたり》(『北海タイムス』大正6年4月27日)
《温根別本線六線付近に数日前から猛熊出没、付近農家を襲わんとするので、剣淵村の木村某が六線道路を通行中、熊が徘徊するのを認め、引き返して鉄砲を持参すると、薪挽きに出かけた佐藤某と格闘しているので、直ちに発砲し首尾よく射とめたが、佐藤は両脚に二週間の怪我》(『北海タイムス』大正9年4月16日)
《温根別模範林及び北線方面において(中略)石川信治(四三)は二日午前七時頃、三番山に行ったまま三日朝に至るも帰宅しないため、付近に住む大平善一、矢野利作の両名現場に赴きたるに、信治は自宅を距たる約二百間の箇所にて見るも無惨なる有様にて咬み殺され、雪中には血痕点々とし膝蓋骨の一部露出している騒ぎに一同驚き、(中略)発掘検屍せるに、わずかに胴を残すのみにて内臓全部を喰い尽くされ、あたかも蝉の空殻のごとく惨状目も当てられず》(『北海タイムス』大正12年5月6日)
■温根別人喰い熊事件(1928年)
《婦人は最初熊に傷つけられてから約二十間位、熊に追われつつ逃げた形跡があり、その間は血痕雪に染み、路辺の笹に血潮は飛び散り、頭髪に肉片の付着した着衣布片が付近に散らばり、数個所にややしばらく倒れていた模様であった。
《小学校五年生の頃だったと思うが、近くの松永(筆者注:増永の誤り)のおばさんは、雪の降り始めた頃、温根別市街へ買い物に出かけ急いでいると、道路の曲がり角で突然熊に出会った。おばさんは、とっさに着ていた角巻きを頭からすっぽりと被ってしまった。
《九月二十六日午前八時頃、上川郡多寄村二十九線西八号より約二里の山奥で、雨龍水電株式会社の測量隊四名が三頭連れの巨熊に遭遇し、二名が臀部、内股から肩などに爪をかけられた。二名はようやくのことで虎口を脱し、風連市街地で応急手当を受けたが、他の二名は一時、行方不明となり、熊の餌食になったものと大騒ぎであった》(『北海タイムス』昭和4年8月31日朝刊)
《添牛内御料地の奥地、北海道大学演習林区内で、北辰電気株式会社の測量隊員三名が先月上旬から測量に従事中、突如前方十数間のところに当歳位の仔熊が現れ、続いて物凄い唸り声と共に巨熊が現れて、狼狽する三名目がけて飛び掛かり、二名はその場に打ち倒され辛うじて逃れた。一名は谷川に身を投じて水中深く沈んだ。
《上川郡多寄村三十二線の農業堀善蔵は、妻と共に二十三日午前十一時半頃、水田の除草中、突然仔熊を連れた巨熊が現れたので、驚いて逃れようとした妻はたちまち喰い殺され、善蔵は妻を救おうとしたが手に余り、付近の稲乾燥用の架木に登って難を避けようとしたが、熊は追いすがって善蔵を爪にかけて引きずり落とし、顔面その他に負傷を負わせて逃げ去った。付近の人々は善蔵を病院にかつぎ込んだが全治約三週間》(『北海タイムス』昭和5年7月25日)
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。