凶暴なクマだが、なかにはわが子をさらわれそうになった親が「拝み倒して助かった」という事例も、数は少ないが記録されている。
まずは明治15年(1882年)の新聞記事より、越中・富山での出来事である。
大阪・堺の百姓家で単衣1枚を盗んで逃げ、巡査に捕り押さえられた吉田金寿という15歳の悪童は、魚津の出身で、人を殺して懲役10年に処せられたが、脱獄して東京を目ざした。そのうち空腹で一歩も歩けなくなり、木の根を枕に横になっていたところ、牛のごとき1頭の大熊が子熊をつれて現れた。
しかし、疲労きわまって身動きもできず、覚悟して念仏を唱えたが、熊はかたわらにたたずんで食いかかっても来ないので、さすがに命が惜しくなり、熊に向かって両手を合わせ、事情を語った。
「なにとぞ命を助けたまえ、そのほうが子熊を愛するごとく、おれの父母もおれの帰宅を待ちわびておる」
人に話すように泣きながら話したところ、熊も聞き分けたようで、不憫に思うような気色でしばらく金寿の臭いを嗅いでいたが、やがて袖をくわえて引っ張るので、引かれるまま従って行ってみた。
すると、半町ほど山奥の松の大樹の後ろにある岩穴に導かれた。4~5間ほど奥に入ると、蒲(ガマ)の穂が敷かれ、まるで布団のようになっていた。
熊親子はその上に横になり、金寿にも「寝よ」とすすめる様子なので、やや安心して同じくそこへ横になったが、昨夜からの疲れでそのまま眠りについた。
翌日の正午頃に目が覚め、あたりを見ると親熊は子熊に乳を呑ませながらかたわらにおり、枕頭には栗・栃・桑などの実が5~6個まとめて置いてあった。その味わいは、甘さのなかに酸味を帯び、匂いは芳しく、美味とは言わないがまずくもないもので、これを食って水を飲み、再び眠りについた。
こうして3日たち、4日めの朝食を終わると、熊はしきりに袂をくわえて引くので、いぶかしみながらもついて行った。街道が近づいたかと思うと、熊は後ろを向いて一目散に駈け出し、見る見るうちに姿を見失ってしまった。
《さては我をここまで送ってくれたものと、さすがの悪童も熊の恩義を感じ、その方を拝んでしばらくその徳を謝したという》(『朝日新聞』明治15年8月18日)
次は子供をさらっていく熊に、母親が哀願して助かったという事例である。
網走で農業を営む一ノ瀬利助の妻イト(29)が伐採小屋で昼飯の準備中、長男・義一(6)が隣家の子供2人と遊びに出かけた。しばらくして子供たちが息せき切って「熊が出た」と真っ青になって逃げてきたが、義一の姿が見えない。
イトは驚き、2歳の男の子を背負ったまま裸足で駈け出してわが子の行方を探し回った。すると、はるか遠い藪の中に、義一の足をくわえて引きずっていく大熊を見つけた。
《半狂乱の有様で熊に近より、義一を抱えて引っ張ると、義一のゴム靴だけ熊の口に残り、義一を熊から奪い取って小脇に抱えたが、熊は義一を見付けてなおも挑みかかり、義一の足に喰い付こうとするので、イトが義一を小高い場所へ投げ出すと、熊は今度はイトの裾をくわえて引きずって行くので、背の子や義一は大声で泣き叫ぶし、自分も真っ青になってふるえ上がり、絶体絶命となって、『どうか熊さん親子三人の命を助けて下さい、決して仇をしないから』と手を合わせて二、三度拝んだ。
その精神が熊に通ったかどうか、熊もボンヤリ二三間後退りしたので、イトは義一を抱いて一目散に駈け戻った(『小樽新聞』大正11年12月4日)。
クマが子供をさらっていくのは、いったい何が目的なのか理解に苦しむ。エサと認識していたなら、その場で叩き殺して運んでいくからである。
樺太でも似たような事件が記録されている。
とある村にイチというアイヌがいて、よく人に馴れた仔熊を飼っていた。3歳になって成獣すると、クマは檻を破って逃げ出したが、集落付近に潜伏しているようだった。
《イチの小屋の一番近い農家の妻君が、裏手で畠仕事をしていると、家の中で昼寝をしているはずの子どもが急に火のつくように泣き出した。あまり異様な泣き声に、大急ぎでやってくると、大きなイチの熊が自分の子供を人間のような恰好して、さらってゆくところだった。
肝をつぶした農婦は自分の身の危険も忘れて、大声をあげて狂気になって熊を追いかけた。イチの熊は、自分にむかって訳のわからぬ叫び声をあげてくる人間に、びっくりして立ち止まった。
そして子供をその場におくと、ゆっくり腰をおろして待っていた。半狂乱になった農婦は、やっとわが子の足をつかまえると、べったりそこに座りこんで、熊に向かってぺこぺこお辞儀を繰り返した。
「あ、もし、お熊様」
母親は一生懸命な声をふりしぼった。
「おらはお前さんに、なにも悪いことをした覚えはねえだべ。それにおらの子を食うのは非道でなかんべか」
「うおう、おう、うおう」
「どうか助けると思って、この親子を見のがしてくだせい、のう、お熊さま」
「ぐうおう、うおう、ぐうおう」》(松野朔雄『樺太時報』昭和14年8月号所収「イチの熊」)
イチの熊は人間にいじめられたことはなかった。熊は、自分の子供をしっかり抱いて哀願している母親の姿を見て、眼をしばたたきながら、ぐううと最後の声を出すと、ゆっくり立ち去ったという。
イチの熊は、この後、イチと常さんという和人の猟師に追われて手負いとなり、常さんに重傷を負わせ、イチを樹上に追いつめて噛み殺そうとした。
このときイチは、「のう熊公、お前は育ててやったこの俺を忘れたのか。お前はこの俺がわからねえのかよ」と、農婦と同じようにおまじないを唱えたが、もはや通じることはなかった。
イチは幸運にも熊を獲ることができたが、《常さんは二月も入院して出て来た時は、人間のような顔をしていなかった》という。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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