実の親が暴力団員だとしたら――。究極の “親ガチャ” 家庭に生まれ育った子供たちはどんな人生を送るのか。その実態を著書『ヤクザ・チルドレン』(大洋図書)で描いたのが、ノンフィクション作家の石井光太氏だ。
「暴対法(暴力団対策法)が施行されて、2022年で30年。その後の暴排条例(暴力団排除条例)の施行もあって、準構成員を含めて約9万人いた暴力団の構成員は、2021年末で約2万4000人と3分の1まで減少しました。
しかし、忘れてならないのは、暴力団の構成員にも家族がいることです。暴力団家庭で生まれ育った子供たちの数は、すでに成人になった者も含めれば数十万人いると考えられます。
構成員を締めつければ、その皺寄せは、もっとも弱い立場の子供にいくのです。国は、法と条例を駆使して暴力団に圧力をかけるのならば、その子供たちに手を差し伸べる必要があります。子供たちにはなんの責任もないのですから」(石井氏)
ある意味、男以上に凄絶なのが「ヤクザの娘たち」の人生だ。普通の女性なら体験しない苦役を背負わねばならず、それでも、彼女たちはもがきながら必死に生きている。
以下、『ヤクザ・チルドレン』に登場する14人のうち、3人の娘たちの半生を要約して紹介する(石井氏の取材は2018~20年のもの)。
■家族の記憶がない鳶職の少女
17歳の赤塚英美里(仮名)は、母と広域暴力団の構成員である男と同居しながら、千葉県内の通信制高校に籍を置いている。英美里は、母親が刑務所を出所してから、別の刑務所に収監されるまでの3年間で産んだ3人の子供のうち、2番めの次女だ。物心つく前から児童養護施設に入れられていたが、2019年、そこから逃げ出して母が暮らすアパートに転がり込んだ。
英美里には、家族で暮らした記憶がまったくない。母親が窃盗などで指名手配を受けて、警察を逃れラブホテルを泊まり歩いていたとき、彼女は1歳くらいだった。その直後に母親が収監されたので、英美里は姉と2人で児童養護施設で暮らすことになった。
刑務所を出た母が子供たちを引き取りに来て、いったんアパートで母、母の愛人、姉、英美利の4人で暮らすことになったが、男はクスリの売人だった。母親も相変わらず覚醒剤をやっていた。
警察から指名手配を受け、ふたたび逃亡生活が始まり、ラブホテルを転々とした。母たちは警察に追われてピリピリしていて、喧嘩ばかりしていた。自分たちも殴られた。いつも顔面がはれ上がって口の中が切れているような状態だった。
母と男は警察に捕まり、英美里は刑務所で生まれた弟と姉と3人でふたたび児童養護施設へ預けられた。
施設に入った姉は荒れはじめ、小学4、5年の頃には、万引き、喧嘩、煙草とやりたい放題。姉は児童自立支援施設へ送られ、戻って来なかった。英美里はその後も施設で暮らし続けた。
SNSを通して姉から連絡が来るようになったのは、英美里が高校へ入って間もなくだった。姉は母とときどき会っているという。姉に紹介され、英美里も母と会うようになった。母は2歳とゼロ歳の子を抱え、クスリの後遺症や病気で生活が大変そうだった。英美里は、アパートに一緒に住んで、妹たちの世話をしたいと思うようになった。
しかし、施設を簡単には出られない。まして前科持ちの母とヤクザが生活している家となれば、許可が下りるわけがない。そこで、施設に荷物をすべて置いたまま逃げ出し、アパートに転がり込んだ。
施設を出たことで、実の父親と会うことができた。父はいまも現役の組員で、覚醒剤の密売と車の窃盗容疑で懲役7年で刑務所へ行く直前だった。父は「回らないほうの寿司屋」へ連れて行ってくれ、全身の立派な刺青も見せてくれた。
父に彫師を紹介してもらい、英美里、母、姉の3人でおそろいのタトゥーを彫ってもらった。英美里が入れた文字は「Family is my Treasure」。「家族は私の宝」という意味だ。いままでずっとバラバラに暮らしていたが、ようやく一緒になることができた。その喜びを彫ることにした。
「いまの生活は充実している」と英美里は語る。建設現場のアルバイトで鳶職として頑張っているし、妹の保育園の送り迎えも毎日やっている。下の子のおむつも替える。
一番楽しいのは妹たちの洋服選びだ。いまの目標は、早く高校を卒業して、鳶として一人前になること。少しでも早くお金持ちになって、お母さんや妹たちを楽にしてあげたいと願っている。
「本当に彼女の仕事がうまく行ってほしい。でも、彼女が背負っているものはものすごく重く、これからどうなるかはわからない。そんな彼女が『家族は宝』と言っている。切ないですね」(石井氏)
■19歳で2児の母、夢は古紙回収業
松島一恵(仮名)の父は地元では有名な不良で、中学時代から傷害事件を何度も起こし、卒業後は地元の暴走族へ加入。18歳で引退してから、先輩の誘いを受けてD会の傘下組織の盃を受けた。
同級生だった母も、幼い頃から札付きの不良少女だった。小学生の頃にはシンナーに手を染め、中学に入って間もなく覚醒剤を覚えた。高校は卒業せず、暴走族の集会と覚醒剤に溺れる日々。17歳でトラック運転手と結婚したものの、喧嘩ばかりで2年で離婚。
1995年、22歳の2人の間に生まれた長女が一恵だ。だが、家族3人の暮らしは長くは続かなかった。父は組織の車で事故を起こしたのをきっかけに、組を脱退。正業に就くことも裏稼業もできず、パチンコと酒に明け暮れた。2番めの娘を身ごもっていた母から離婚を突きつけられ、父は家を出て行った。
2児のシングルマザーとなった母は、正業に就いて子育てに生きがいを見出すタイプではなかった。裏社会のつてを使い、覚醒剤の密売を一人で始めたのだ。テーブルや床には注射器が転がっていたし、マンションにはヤクザ風の人がしょっちゅう出入りし、刺青のない人のほうが珍しかった。
一恵が小学4年生の頃、警察が家宅捜索に来て覚醒剤が発見され、母は実刑判決を受けて刑務所に収監された。一恵は妹とともに、離婚した父親の実家に預けられた。
父は遊び歩いてばかりで帰ってこなかった。祖母は、食事作法から言葉の使い方、勉強まで徹底的に教え込もうとした。一恵は祖母と顔を合わせるのが嫌になり、放課後は公園やコンビニの前でたむろする年上のグループとつるむようになった。
母親が出所したのは、一恵が12歳のときだった。彼女は父親の実家から一恵と次女を引き取り、逮捕前から付き合っていた男のマンションに転がり込んだ。
一恵が初めて覚醒剤の味を知ったのもこの頃だ。中学3年のある日、地元の先輩と遊んでいたら「一恵もやってみる?」と誘われた。「別次元の快楽」だった。中学卒業後、一恵は高校に進学したものの、勉強する気は微塵もなかった。覚醒剤を打つことさえできれば、それ以外のことはどうでもよくなっていた。
そんな頃、母は男と別れ、マンションを出て行くことになった。新しい恋人は、母より20以上も年上のD会の構成員だった。
一恵は高校をやめて一人暮らしすることになり、荷物の配送アシスタントの仕事に就いた。給料は25万円あったが、覚醒剤を常用していた彼女にはまったく足りない。配送の仕事をする一方で、夜には車上荒らしと売春詐欺をはじめた。こうして手に入れた金は、全部クスリに消えた。
覚醒剤漬けの日々から一恵が脱したのは、17歳のときだった。1歳上の男性との間に、子供ができたのだ。つわりが激しく何日も寝たきりになっているうち、覚醒剤をやりたいという衝動が消えた。
その後、長男を出産。1年後には次男を妊娠した。妊娠中のつわりや育児の忙しさが重なり、自然と覚醒剤から離れたが、夫婦のいさかいが絶えず、一歳児とゼロ歳児を抱えたまま離婚を決めた。
独力で2人の子供を育てるのは難しく、母親を頼った。この頃、義父は軽トラックで古紙回収業をしていた。年老いた構成員は何かしらの仕事を持つのが普通だ。一恵は仕事に困っていたことから、義父を手伝って小遣い稼ぎをした。
一恵は古紙回収業を気に入ったものの、母親たちに迷惑をかけたくないという思いから、生活保護を受けることにし、アパートを借りて自立した。
そこは母が住んでいる家とさほど離れておらず、数日に一度は会う関係が続く。一恵は週に何度かキャバクラでホステスとして働いており、その間、幼い子供たちを預かってもらっている。
一恵のいまの夢は、義父と一緒に古紙回収業を本格的にやることだ。しかも、ちゃんと許可を取って本格的に業者としてやりたいと思っている。「小さいときから周りに悪いことをしている大人しかいなかった。昔はそれが当たり前だと思っていたけど、いまはそうじゃない生き方をしてみたい気持ちのほうが強い」と語っている。
「彼女が真っ当な仕事として思いつくのは、いまのところ古紙回収業しかないのです。ただ、そのノウハウを知っている義父は、覚醒剤で逮捕され、懲役2年の判決を受けて刑務所に収監されている。
出所する頃には、子供が成長していまほど手がかからないようになっている。そうなれば、仕事のやり方を一から教わり、会社を立ち上げるのも夢ではないと一恵は考えている。
うまくいくかどうかはわからない。でも、それが、ヤクザの娘として生まれた彼女が思い描く理想の人生なのです」(石井氏)
■父と同じ墓に入りたい
「私にとってヤクザだった父は、心の支えだったんです。お父さんがいたから、私は生きてこられた。そうじゃなかったら、この人生に耐えられなかったかもしれません」
吉川真緒(仮名)が声を震わせながら語ったのが父親への愛情だった。父親は、指定暴力団W会の二次団体のナンバー2だった。真緒が父親と一緒に生活したのはわずか1年ほどしかない。
父は、20代の終わり、かつて収監されていた高知刑務所で知り合った暴力団構成員に会いに行った。そのとき連れて行かれたクラブで出会ったのが理沙子というホステスだった。2人はすぐに体の関係になり、理沙子は父を追いかけるように千葉県にやって来た。理沙子は23歳で長女を出産。翌年には年子となる次女を産んだ。その次女が真緒だ。
父の女性関係は絶えず、理沙子にはそれが耐えられなかった。父は、家を譲り、養育費を払うという条件で離婚を提示し、理沙子は受け入れた。
理沙子は、やがて父の舎弟に当たる男と肉体関係を持つようになる。男はテキヤを名乗っていたが、裏では覚醒剤を扱っていた。家に上がり込んで来てすぐ理沙子に覚醒剤を覚えさせた。理沙子は坂道を転げ落ちるように壊れていく。
「覚醒剤が切れた瞬間に殴り合いですよ。毎日、怒鳴り声が聞こえてきて、お互い血だらけになるまで殴り合っている。こういうときは気が立っているので、私や姉も標的にされます。理由なんかありません。いきなりボコボコにやられるんです」(真緒)
小学4年生のとき、こうした生活が突如として終わりを告げる。義父が覚醒剤の密売で逮捕されたのだ。そのまま実刑判決を受けて刑務所へ収監される。警察は、共犯者である理沙子にも目をつけていた。理沙子は、娘たちに、実家のある高知県に帰ることにしたと告げた。
理沙子は再び覚醒剤に手を染めるようになる。理沙子は覚醒剤が切れるとパニックになり、娘2人に飛びかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。
先に心が壊れたのは、姉のほうだった。中学2年のとき、薬箱にあった薬を大量に飲んで自殺を図った。理沙子は、姉だけを叔母夫婦に預けた。理沙子は鬱憤を真緒にぶつけ、居酒屋で朝まで飲んでは見知らぬ男を連れ込んだ。
真緒にとっては生き地獄だった。日中は暴力を振るわれ、夜は独りぼっちにされ、明け方には母親と見知らぬ男の痴態を見せつけられる。中学2年になったとき、真緒は不登校になった。
理沙子は中学2年の真緒にスナックで働くように言った。スナックで稼いだ給料は、ほとんど母に取られた。16歳になると、進学せずにスナックをやめ、より時給の高いラウンジへ移った。
客として来ていた雀荘の経営者に誘われて雀荘で働くことになったが、理沙子が店に「16歳の子を深夜に働かせるのは違法だ」と文句をつけて邪魔をした。
このままでは一生、母の支配下に置かれる。いま逃げなければ死ぬまで搾取される。真緒が頼れる人として頭に浮かんだのは、千葉県に住む実父だった。真緒は父に電話をかけて訴えた。父は「いつでもおいで」と言ってくれた。
千葉県松戸市にある父の家に、真緒はバッグ一つで転がり込んだ。16歳から17歳にかけてのこの1年間を、真緒は「人生でもっとも幸せな時期」と回想する。
物心ついたときから荒れる理沙子に向き合って来た彼女にとって、父親の愛情に包まれて、何の不安もなく過ごせる空間を手に入れられたことに勝る安心はなかったのだ。
しかし、ようやく手に入れた幸福な日々は、1年ほどで幕を閉じることになる。父が出先で倒れ、病院へ運び込まれたのだ。診断はC型肝炎からの肝硬変だった。「このままなら余命は半年。助かる方法は肝移植しかない」と医師は言った。
真緒はドナーになる決心をしたが、未成年だったため親の承諾が必要になる。だが、母親の理沙子は「絶対承諾しない」と冷たく言い放った。
中国での移植をあっせんしている業者を見つけ、上海へ渡り肝臓移植手術を受けた。手術は成功したが、術後、容態が急変し、父は一度も意識を取り戻さないまま、息を引き取った。
現在、30代になった真緒は、東京の銀座でホステスとして働いている。
「私にとって父は何かと尋ねられたら、家族そのものと答えます。1つだけ願っていることをあげるなら、お父さんと同じお墓に入ることかな。私、自分で働いて稼いだお金で、お父さんのお墓を新しくしたんです。いつか私が死んだとき、そこに入って、お父さんと一緒にビールを飲みたいですね」
真緒にとって、父と過ごしたわずか1年間だけが家族の時間だったのだ。
「真緒の父も、半世紀以上の間、暴力団幹部として生きて来た男ですから、多くの犯罪に手を染め、他人の人生を踏みにじってきたに違いありません。真緒の父に対するイメージは実際以上に美化されていると思います。
それでも、人は悲しみと苦しみだけでは生きていけない。何かしらの素晴らしい思い出や希望を必要とするものです。彼女にとって父と過ごした1年間がそれなのでしょう」(石井氏)
2015年に公開されてヒットしたドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』は、暴排条例により行き場を失った暴力団員とその家族の姿を描き、「ヤクザの人権」という問題に焦点を当てた。
“表” の社会で生きることを選んだ子供たちは、親の存在のために理不尽な社会的差別にさらされる。それでも、石井氏が取材したヤクザの娘たちは、仕事を得て、自力で人生を送っていた――。