北海道の美瑛町は、濃紺の空、波打つ緑の大地、一直線に伸びる白い雲――こんな美しい風景で知られている。だが、この町はヒグマの出没多発地域として古くから知られてきた。
特に大正期の15年間には、美瑛村を中心に、東川村、神楽村、芦別村など半径20キロ圏内で、殺害事件10件(犠牲者12名)、傷害事件3件(負傷者3名)が起きている。その最初の兆候は、美瑛村の北東に位置する東川村(現上川郡東川町)で起こった。
《明治四十四年九月二十四日午後四時頃、小笠原農場小作人、谷口唯一(二六)が、妻スガ(二十)に長男勝一(二ツ)を背負わせて帰宅する途中、傍(かたわ)らの藪中にコクワを見つけたので、スガを待たせて木に登り採取し始めた。
すると後方の藪の中で熊の吠え声が聞こえ、一頭の子熊を連れた巨熊二頭が五十間程のところに現れたので、妻スガに対して「早く死んだ真似をしろ」と注意した。スガは熊の咆える声に逃げ場を失い、道路の中央に子供を腹の下に敷いて死んだふりをした。
この時、牝らしき巨熊が猛然と駈けてきて、コクワの木にスルスルと登り、唯一の右腿に爪を突き刺し引き下ろそうとしたので生きた心地もなく木の幹に抱きついて両足を延ばし、死んだふりを装った。
同じ頃、他の一頭が地上に死んだふりをしているスガに近づき、内股を引っ掻いたので、スガは女だけに悲鳴を上げて気絶した。熊は両人が全く死んだものと思ったか、幾度も後ろを振り返りつつ藪の中に逃げ去った。》(『小樽新聞』明治44年10月3日)
夫婦ともに命に別条なかったが、この事件はこれからはじまる連続人喰い熊事件の予兆に過ぎなかったのである。
翌年の大正元年(1912年)6月18日、村の中心部から4里の助川農場で、小作人数人が農場内の樹木の伐採に従事していた。午後2時頃、近くの森林でヒグマの咆哮が聞こえたので、一同は肝を潰して逃げ出した。
しかし、そのうちの今野重吉(35)だけが、どういうわけか反対の方向に逃げたので、出会い頭にヒグマと行き合い、飛びつかれて数カ所の重軽傷を負った。
今野の悲鳴を聞いて、他の2名はマサカリを構えて声の方向へ歩み寄った。すると、《今しも巨熊は重吉の体を滅茶滅茶に引き裂き、その上、両人が逃走せる際、忘れ置きたる半天まで噛み切り、牙を鳴らして立ち上がり飛びかからんとするにぞ、両人は生きたる心地せず夢中となりて下山》(同)した。
翌19日に巡査が村人を集め、重吉の検死のために現場に赴いたところ、前日の巨熊が再び一行の前に姿を現したので大騒ぎとなり、若者らは実弾をこめて発砲したが、熊を取り逃がしてしまった(『小樽新聞』明治45年6月21日)。
このときに加害熊を仕止められなかったことが、さらなる惨劇を引き起こす結果となる。
2カ月後の8月5日、東川村19号の杣夫(=木こり)、伊豆徳之助(45)は、同僚らと同村東20号の山中で伐木作業に従事していると、午前9時頃、突然ヒグマが出現したので、一同我先に逃げ出したが、徳之助は不幸にも木の根につまづいて倒れてしまった。
ヒグマは徳之助に襲いかかり、たちまち右手、臀部、左足などを噛んで死亡させ、さらに死体を喰い散らかして土を盛りかけ、森の中に姿を消した(『小樽新聞』大正元年8月8日)。
この事件については、地元古老による詳細な回顧録が残されている。
《杣夫伊豆徳之助(当時四一歳)が、区画外水力電気工事請負人高田辰五郎方の人夫部屋から約九〇〇メートル離れた山林内で、八名の杣夫と共に伐採中であった。
当時の伐採作業は、「小間割制(=仕事に対するノルマ)」であったから、みんな仕事に夢中になっていた。杣夫たちの背後に、二頭の巨グマが忍び寄っていることにはだれも気付かなかった。午前六時ころだったろうか、振り向いた一人がクマを見つけ、「クマだっ。危ないっ!」と、怒鳴った。
その声に二頭のクマは仁王立ちになった。徳之助との距離は五、六メートルだった。「逃げろっ。」の声は、青空にこだました。杣夫たちは一目散に宿舎目掛けて逃げ出したが、クマも全速力で追い駆けてくる。
一〇メートルほど走った徳之助は、不幸にも木の根につまずき、足をとられて倒れた。瞬間、巨グマが覆い被さったのが見えた。「ぎゃっ。」という声を最後に、噛み殺されたのである。》(『郷土史 ふるさと東川I 創世編』)
翌朝、村人は巡査とともに死体の捜索に向かった。襲われた現場から少し離れた切り株の根元近くに、肩から股の左半分の肉全部が掻きむしられた死体が見つかった。クマが土と落葉を集めて隠していた死体は黒ずんだ血の塊で生々しかった。
加害熊が「2頭」となっていることから、おそらく母グマと2歳ほどの仔熊だった可能性が高い。地元では、この事件の1カ月ほど前、農場内で今野重吉が巨グマに噛み殺されたばかりである。今度のヒグマは、今野を食い殺したヒグマと同一だろうと噂された。
たび重なる事件に村民は恐怖におののき、軍隊にクマ狩りを要請した。すぐに第7師団が大挙して来村し、クマ狩りをおこなったが、巨グマの行方はようとしてわからない。
2名を喰い殺した熊は、その後も集落に居座り続け、《二度までも人肉の味を覚えたる熊は昨今に至りますます跋扈し、白昼人家近くに現れ追い掛けられし者少なからず》(『小樽新聞』大正元年8月14日)という状況で、村人は戦々恐々であった。
そして、伊豆徳之助が喰われてから1週間もたたないうちに、恐れていた3人目の犠牲者が出た。
8月11日午前7時頃、東川村北5線東7号8号の共同牧場裏山で、シナノキの樹皮を採っていた小山田彌一は、突然現れたヒグマに驚いて山伝いに逃げ出したが、倉沼川に転落し、追いかけて来たヒグマに首筋や背中を掻きむしられた。
小山田は声を限りに救いを求めたところ、農場の人々がやって来て大声を発したので、ヒグマは小山田を捨てて逃げた。九死に一生を得た小山田であったが、危篤状態で、後に死亡したという(『北海タイムス』大正元年8月14日)。
小山田が喰われて1時間後の午前8時頃には、事件現場近くの民家で加害熊が目撃されている。
《硝子窓に怪しき物陰写り、ビリビリ音したるより、(中略)堅く戸締まりをなし、ブリキ缶を叩き立てたれば、熊はようやく立ち去り、一家難を免れたり》(『北海タイムス』大正元年8月14日)という危険な状況で、このときの目撃証言によれば、《馬よりも大なる熊》であったという。
東川村役場では、3名も殺された事件を問題視し、加害熊に対して合計35円の懸賞金をかけた。そして稀代の人喰いグマも最期を迎えることになる。以下、まるで講談のような名調子の新聞記事を再掲しよう。
《本月十五日、国富牧場付近、東十二号区画外において例の猛熊潜伏せるを発見したれば、湯原磯五郎(五八)直ちに御座んなれとて猟銃提げ駈け出でたれば、(中略)ソレと見るより湯原は銃取り直し狙いを定めて発弾、熊の臀部と腹部に各一弾を喰らわしたれば、熊は傷を負うて大に怒り猛然として湯原めがけて突進し来たり、その距離わずかに二間程に接近しければ、いずれもあっと湯原を気遣いたるに、剛胆不敵の湯原は泰然として一歩も退かず、ふたたび銃声一発熊の舌を打ち抜きたれば、さすがの猛熊も一声咆哮すると同時に鮮血を口中よりほとぼらし、そのまま十二三間の谷間に転倒しければ、ソレと一同駈け寄り国富氏を始め一同、銃を乱発して頭部眼等を打ち抜きたれば熊は終に絶命したり」(『北海タイムス』大正元年8月19日)
熊の死体は荷馬車で東川村役場前に運ばれ、展示され記念撮影がおこなわれた。また熊狩り連のために慰労会が催され、湯原磯五郎、国富忠治の2名に対して、後日、役場より感謝状と15円が贈呈された。
解剖された熊は、多くの人を喰ったにもかかわらず、非常に痩せていて、体重は40貫(150キロ)にも満たなかった。それでも正肉20余貫が付近の集落へ分配された(『北海タイムス』大正元年9月20日)。
こうして事件は一応の落着を見た。しかし、不可解な点が残された。それは射殺された熊が、目撃証言にあった巨熊とはほど遠い、痩せた熊で、仔連れ熊ではなかった点である。
そして、案の定というべきか、小山田が襲われたわずか1カ月後、新たな人喰い熊事件が発生した。
《大正元年九月十九日午前九時頃、上川郡美瑛村原野二十一線の陸軍演習用地に大熊が出没し、作物に被害が出た。そこで霜鳥農場の主人が熊狩隊を繰り出し、小作人、渡邉丑之助(四八)他一名が畑際を進み、他の三人が藪に入り追い出しに従事した。
約二丁位進んだところで突然、前方一間ほどの藪の中から大熊が現れて二人組の追撃隊の渡邉に飛びかかり、たちまち噛み殺してしまった。三人組は二、三間後方から狙撃して熊の脇腹に命中したので、大熊は猛り狂って、引き返してきた。
二発目の弾丸を込めるいとまもなく、同農場小作人、伊藤八百吉(四八)に飛びかかり、同人を倒して逃げ去った。人々は直ちに伊藤に応急手当を施したが、二十日午前九時頃死亡した。渡邉の創傷は、大腿部、臀部、腹部、心臓部等に約三十二箇所の噛み傷があり、伊藤は左肺部、腹部、左腕、左大腿部他に六カ所の噛み傷があり、見るも無残な最期であった》(『北海タイムス』大正元年9月22日)
加害熊は、6発目めの弾丸がのどに命中し、ついに仕留めた。黒毛の牡熊で7歳くらい、重さは337.5kgもあったという。
人間を襲うことになんらの躊躇もなく、また時間的・地理的にも、東川村の一連の事件ときわめて近く、熊の巨体が前述の目撃証言に合致することを鑑みると、こちらが本命の人喰い熊ではなかったか。
ということは、この地域では、複数の人喰い熊が同時多発的に出現していた可能性が高いのだ。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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