住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代から追いかけているアーティストの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「’87年、アルバム『BAD』をリリースしたマイケル・ジャクソンが、初のソロツアーで来日したとき、事務所のスタッフさんが『最高のエンターテインメントだから、勉強のためにも見るべきだ』と、最前列のチケットを取ってくれたんです。目の前でマイケルを見られる席って、どんな人が座っているんだろうと周囲を見たら、ど真ん中に松田聖子さん、その5つくらい横に山田邦子さん、さらに5つくらい隣が私でした」
こう語るのは、芸能界でも随一の“マイケル通”である、タレントの西村知美さん(50)。インタビュー現場にも、数々のレアグッズを持参してくれた。
「これはマイケルの写真や来歴、エッセイが収められている豪華本。世界で1万冊しか発行されていないもので、シリアルナンバーが387番なんです。表紙の裏にあるボタンを押すと、マイケルの肉声メッセージが流れていたのですが……。何度も聴きすぎて電池がなくなってしまったみたい。それでこれはジャクソン5時代に来日した際、スタッフだけに配られた非売品の手袋。マイケルが所属していたモータウンレコードのロゴが入ったレアものですよ。それでこれはーー」
これほどのお宝グッズを入手できたのも、芸能界にいればこそ。だが、デビューはまったくの想定外だったという。
「山口県宇部市の田舎住まいで、東京なんて別世界。“一生に1回、行ければいいな”というレベルでした。中学時代はチェッカーズさんと菊池桃子さんが好きで、テニス部の練習では『ギザギザハートの子守唄』(’83年)に合わせて、素振りをしていましたね」
■何もわからないままアイドルデビュー
ところが中3のある日、突然、大好きな菊池桃子がイメージガールだったアイドル雑誌『Momoco』(学研)の編集部から、「福岡で撮影があるので、ぜひ来てください」と電話が。
「姉が勝手に応募していたんです。両親は基本的に『芸能界なんて』という考えでしたが、『雑誌に載るくらいならいいかな。せっかくの機会だし』と“思い出作り”みたいな感じで賛成してくれて」
ところが、あれよという間にアイドルの登竜門だった「モモコクラブ」の会員となり、ついにはグランプリに輝いてしまう。
「すぐに上京することになり、山口に帰るのは定期テストのときくらいという生活に。親は反対する暇もなかったほどでした」
中学の卒業を待ち、何もわからないままデビューを果たすことになった西村さん。
「初めてのお仕事は『ドン松五郎の生活』(’86年)という映画の主演。主題歌も歌ったんですが、演技も歌も未経験だから、すごく下手で。監督から『君は女優と歌手、どちらをやりたいの?』と聞かれても、『わかりません。事務所に聞いてください』としか答えられませんでした」
それまでテレビの中でしか見たことがなかったアイドルたちと一緒に仕事をするのも驚きだった。
「テレビの特番でハワイロケに行ったとき、クルーザーで船酔いしてしまったんです。すると、田原俊彦さんが『大丈夫?』って。『何か食べないと』って小泉今日子さんはリンゴをむいてくれるし、中森明菜さんには足をさすってもらえて、夢のような体験でした」
とはいえふだんは、右も左もわからないまま、与えられた仕事を懸命にこなし、プライベートな時間などない毎日。世の中の流行からも取り残されそうだった。
「『クイズ・ドレミファドン!』(’76〜’88年・フジテレビ系)に出たとき、隣に座った外国人のタレントさんが、すごく親切に、中学生でもわかるような簡単な英語で、『いくつなの?』『かわいい衣装ね』『白が似合うわね』と声をかけてくれたんです。周りのみんなはそれを見て、すごく興奮していたのですが、私はどなたかわかっていなくて、聞くと『マイケル・ジャクソンのお姉さんのラトーヤさんだよ』と。それでも、マイケルの存在すら知らなかった私は、まったくピンときていなくて……」
■ライブは口パクで盛り上がった
マイケルの来日ツアーのチケットを入手してもらったのは、その後、しばらくたってから。
「1曲も知らないんじゃ盛り上がれないと思って、予習のつもりでレコードを聴いたら、あまりに声が高くて、『マイケルっていうから男性だと思ったけど、女性だったんだ』と勘違い。ただ曲は大好きで、すぐにめちゃくちゃハマって、アルバムを全部、ジャクソン5までさかのぼって聴き込みました」
来日コンサートではメドレーでジャクソン5の曲も披露された。西村さんは英語がわからないながらも盛り上がりたくて、適当に口をパクパクさせていたという。
「そうしたらカメラクルーが私の隣にきて、すごいアップで撮り始めたんです。でも、私の口の動きがあまりにも歌と合っていないものだから、カメラマンが笑ってしまい、肩にのせたカメラが揺れていました。けっきょく映像はどこにも使われていませんでしたね」
こうして火が付いたマイケル熱は、以降、ますます高まり続ける。写真集の撮影でハリウッドに行った際には、現地でのコンサートはもちろん、マイケルの家にも足を運んだ。
「テレビ番組の“あの人はいま”企画で、’80年代に日本でもブームになったエマニエル坊やさんを取材したことがあって、彼が来日したとき、六本木のマハラジャのVIPルームに招待されたんです。『今からマイケルも呼ぶから』と言われて、ツーショットの写真を見たことがあったし、プライベートでも仲がよさそうだったから、“本当に会えるかも!”って大興奮だったのですが……」
このときマイケルは、お忍びで家族と来日していたという。
「しばらく待って、来たのはお付きの人だけ。マイケルは『疲れたからホテルに帰る』ということでした(泣)」
’80年代から追いかけ続けたマイケルだが、ついに対面することはかなわなかった。
「だからこそ、現役時代のマイケルが私の中で生き続けていると、いまでは思っています」