著名人の自死が続いている。それぞれの事情はわからない。だが、いま社会を覆うコロナによる不安と無縁とは思えない。人と人を遠ざけたコロナ。奪われた日常。何が変わってしまったのか。コラムニストの矢部万紀子さんがつづります。
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6カ月半ぶりに再開したシアターコクーンに行ったのは、また一人、芸能界で活躍していた女性が死を選んだと報じられた翌日、9月28日だった。
消毒、検温後に入場。名前、座席、電話番号、メールアドレスを紙に書いて提出。一つおきに座り、舞台に近い人にはフェイスシールドの貸し出し。東京・渋谷の厳戒態勢。そこで「十二人の怒れる男」を見た。
■誰かの前向きに傷つく
パンフレットを購入した。今年1月、シアターコクーンの芸術監督に就任した松尾スズキさんの文章が載っていた。
依頼され1年迷ったこと、知れば知るほど芝居は怖いと思うこと、それでも引き受けたのは「初めてコクーンで上演した時、怖くなかったから」。そんなことを綴っていた。そして最後は、新型コロナウイルスの話。
──いざ就任した途端、私が決めたラインナップは、コロナで次々に頓挫していったのだ。ショックだったが、デフォルトに「怖い」を搭載している私は思ったほどくじけていない。怖さを知っているということは、怖さへの耐性ができているということだ。芝居が潰れた、じゃあ、劇場はどうする。二の矢三の矢を考えろ、松尾──
自分への自信、自分を鼓舞しなくてはという気持ち、どちらもが表れる前向きな文章だった。心が、チクッとした。前向きな人を見ると、少しだけ傷ついたような気持ちになる。
ダメな感情だとわかっている。だけど、コロナが広がるにつれ、よるべのなさを感じるようになった。よるべのなさが連れてきたのが、「誰かの前向き→少し傷つく」という感情。コロナが収束しないから、ずっと心の中にすみついて、いつまでも消えてくれない。
フリーランスという立場のせいだと思っていた。先行きが不安だから、充実している人と比べてしまうのだ、と。だけど、徐々にそれだけではないような気がしてきた。
どのような立場にいるかを問わず、弱い気持ちになる人がいる。ならない人もいるが、なってしまう人が確かにいる。そこがコロナという病の特徴であり、大きな問題なのでは。そんなふうに思うようになったのは、芸能界で自死が続いていることと、少し関係している。
なぜ、華やかな世界で活躍している人が、そういう行動をとってしまうのだろう。調べると自死は夏以降、増えているようだ。警察庁がまとめている月別の自殺者数を見ると、5、6月は前年より少なかったのが7月から増加に転じ、8月は前年より200人以上多かった。
それぞれの事情があってのことではある。だが、コロナという病は、人と人とが離れることを求める。できるだけ外出せず、一人でいなさい、と。感染拡大防止の観点からは当然だ。だが、それによって、すごく大切なものを奪われてしまった。何かというと、「偶然」だ。人は案外、偶然というものに支えられているのではないか。そう思うようになった。
■会うことで救われる
きっかけは映画「82年生まれ、キム・ジヨン」だった。10月9日に全国で上映が始まるこの映画の試写を、9月に入ってすぐに見た。同名の原作小説は韓国で130万部、日本でも20万部突破というベストセラー。心の病を得たキム・ジヨンという女性の人生を通し、女性に与えられた理不尽さを描く「告発の書」だ。多くの女性に「ジヨンは私だ」と思わせ、男性にも読者が広がったと聞く。
映画は少し、趣が違った。希望の明かりが心にともる。そんな結末になっていた。「本はカルテで、映画は処方箋」。試写会場で配られたパンフレットに、原作の訳者である斎藤真理子さんが書いていた。
印象的だったのは、ジヨンの担当医師が女性になっていたことだ。原作は男性医師で、ジヨンのカウンセリングを記録、それが女性の生きづらさを綴ることになる。そういう構成になっていた。さらにもう一つ、重要な役割を担っていた。
彼は最後に自分を語り、そこでジヨンへの理解を示す。その後に、妊娠、退職する職場の女性カウンセラーについて、こう述懐する。「いくら良い人でも、育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては……」
これで原作は終わる。差別構造の根深さを、彼という人が体現していた。それが、映画では女性医師になり、目の前のジヨンをまるごと受け止めていた。
初めての診察でジヨンは、「私が悪いんです」と言う。医師はゆっくりと、「あなたは悪くない」と返す。「ここへ来たら、治療の半分は進んだようなもの」。そう言って、ジヨンにほほえんだ。
感動した。二人のありように、励まされた。人と人が会う。そのことで人は救われる。そういう場面を目の当たりにして、気持ちが軽くなった。もしこれがオンライン診療だったらどうだったろう。そう思い、試写の帰り道に気づいた。今、足りないのはこれなんだ。
■日常なら曖昧な境界線
「これ」とは何かというと、「ふとした出会い」だと思う。そう、それが「偶然」。ジヨンにとって治療は必然だが、女性医師との出会いは偶然だ。偶然に出会った人同士の、心に染みる会話。スクリーン上には確かにあったのに、現実からは減ってしまった。コロナが、減らしている。
偶然に出会う相手は、人ばかりとは限らない。風景だったり、聞こえてくる音だったり。そういう何げないもので、嫌なことを忘れたり、少しだけ救われたり、すごく励まされたりする。それが人間というものなのに、それが足りない。
活躍しているように見えても、実は弱っている人がいる。そんなことも感じる。すごくタフか、それほどでもないか。日常なら曖昧でいられる境界線が、コロナではっきりしてしまうのかもしれない、とも思った。
コロナが連れてくる新しい局面に対応し、ますます自信を得るのがタフな人。そうでない普通の人は、自信を失いがちなのだ。自分のネガティブな感覚もあり、そんなふうにも考えた。
竹中平蔵さんが大臣になったのはもう20年近く前、小泉純一郎政権の時だ。それから「勝ち組」「負け組」という言葉が当たり前になり、勝つ人はますます勝つ世の中になった。それは「お金」の話だったけれど、コロナでは加えてメンタルが問われている。お金の問題に直面していない人にも、じわじわと影響が出る。偶然が足りない。励ましが足りない。「よくいる小心者の一人」として、そう思う。
■「わざわざ」が取れない
リモートワークは、会社よりストレスがない。そういう人は多い。会議もオンラインで済むならそれでよく、それこそ、新しい生活様式。わかっているが、割り切れない気持ちもある。その典型が、オンライン飲み会。あくまで個人的な気持ちだ。
何回か参加したが、居心地が悪かった。「わざわざ、がんばって加わる」感じが苦手だった。なぜだろうかと振り返ると、共有する空気がないのだ。だから、「わざわざ」な感じが取れない。空気と偶然。コロナにその二つを奪われてしまった。
だから、というわけではないが、近頃の私はしばしば出かけている。リアル飲み屋にも行く。小心者だがずうずうしいのだ。
でも、真面目に外出を控えている人は、周りにたくさんいる。乳幼児を抱えている人などもそうだ。小さな子どもに感染させてはいけないと思えば、親子で家にいるのが一番になる。家にいることは防御になるが、自分で完結しなくてはならない。それにはタフさが必要で、そこがコロナのやるせなさだ。
ふと出会う。ふと思う。「ふと」だけが連れてくるものが、確かにある。国から「Go Toトラベル」と背中を押されるのでなく、ふと思い立って出かけたい。「ふと」は、いつ、戻ってくるのだろう。(コラムニスト・矢部万紀子)
※AERA 2020年10月12日号
【“マスクリテラシー”にドン引き、別れを決意 コロナ禍で激変する恋愛模様】
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