欧米社会では自己主張が大切だ、とよく言われます。アメリカに暮らしている身としても、しみじみそう感じます。アメリカ人は自己主張が強い。自分が何者か、どんな考えをする人間なのか、お互い開示して理解を深めていくのがこちらのコミュニケーションのスタイルです。ただ、日本で生まれ育った日本人としては「自己主張が大切だと言われましても、主張したい自己がないんですけど」と思うこともあります。
日本で大切にされているのは、伝統や決まりを守る姿勢、穏便さ、協調性など。だから日本人は比較的、「一般的に正しいとされる考え」や「厄介事を起こさないような方法」、「みんなに当てはまるであろう意見」を察し、そこに個人の意見を寄せて一体化させるのが得意です。でもそれをずっと続けていると、自己と他者の境目が溶けて見えなくなってしまう気がします。
対してアメリカ人は、給与の額からランチに食べるサンドイッチの中身まで、確固たる自論を持っています。納得いくまで上司に給与額の交渉をし、サンドイッチ屋さんではパンのトースト方法、はさむ具、ドレッシングの種類を事細かにオーダーしている様子を見ると、そこまで労力をかける姿勢、何より万事に渡って自らの意思が存在していることに驚いてしまいます。典型的日本人としては「そんなことまで自分で決め(られ)るの?」という気持ちですが、アメリカ人に言わせると「自分のことなのに自分で決め(られ)ないっておかしいでしょ?」だそうです。
アメリカ人がここまで自己主張に秀でているのは、教育に秘密がある気がします。たとえば、こんなことがありました。我が家の4歳の娘が通うピアノ教室でのこと。教本に「CDE(ドレミ)の3つのキーを使って、曲を作ってみましょう」という課題があったのですが、娘はなぜか憮然として指を動かそうとしません。聞けば、「CDE(ドレミ)だけじゃなくて、ABCDE(ラシドレミ)の5つを使いたい」と主張するのです。
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■達成感で輝く娘の顔
「決まりなんだから、言われたとおりにしなさい」と、私なら注意していたでしょう。しかし先生は、こう言いました。「そうなんだ、やる気があるのね。じゃあちょっと難しいかもしれないけど、5つ使って曲を作ってみようか」
曲は、最後の音だけC(ド)に指定されていました。最後がドだと、それまでがはちゃめちゃでもなんとなくハ長調の曲に聞こえる気がしないでもありません。しかし娘は、またも無茶な主張をしました。「C(ド)じゃなくて、A(ラ)で終わらせたい」と言うのです。
思わず「ワガママばかり言ってないで、言われたとおりにしなさい」との言葉が喉を出かけました。だって、ピアノ初心者の4歳児に深遠な考えがあってそう主張しているとは思えません。曲の成り立ちを教えるためにも、教本どおりにしたほうがいいに決まっている。私はそう思ったのですが、先生はこう言いました。「実は私もAのほうがいいかなと思ったんだ。じゃあ書き換えてみようか」。そして、教本に書かれたCの字を消し、Aにしてくれました。
娘は大満足で自作の曲を弾きました。ドから始まってラで終わるメロディは、親の耳にはとても曲には聞こえない5音の羅列でしたが、娘の顔は達成感で輝いていました。
そもそも教本には、「自分で曲を作ってみよう」という課題がひんぱんに登場します。ピアノを始めたばかりの初心者なんだから決められた音を決められたように覚えてなぞるほうが上達が早いんじゃないか、私が日本でピアノ教室に通っていたときはそうやって練習したぞ、なんて思ってしまうのですが、少なくとも初心者対象の場合、アメリカ流の練習法は指示遂行・反復練習・暗記とは対極にあるようです。
学校の授業でも同じです。バーチャル学習用の宿題を見ると、「自分で考えてみよう」「自分で作ってみよう」という方向性の問題が多いことに驚かされます。「アルファベットのAから始まるものは何か考えてみよう」「おうちの中でくりかえしの柄になっているものを探してみよう」「〇△□の形を使って顔を作ってみよう」など。決まった答えがない分、採点や指導の労力がかかりますが、娘は実に楽しそうに課題をこなしています。
■学校の給食でも毎日飲み物が選べる!
学校の給食は、毎日飲み物が選べるようになっています。水、牛乳、チョコレート牛乳、オレンジジュースの4種類から選ぶそうで、それを知ったときは「そんなん4歳の子どもに任せたらチョコかジュース三昧になるに決まってるやろ!」と憤慨したのですが、どうやら娘の話では、水や牛乳を選ぶ日もあるそうなのです。選択肢があり、自分にその選択が任されると、案外子どもって賢明な判断をすることができるものなんだな──と考え込んでしまいました。
娘の友だちと会うときも、親が「そろそろ遊びは止めておやつにするよ。クラッカーとバナナ、どっちにする?」などと子どもに選ばせる場面をよく目にします。それはスムーズに物事を運ばせるための戦略なのかもしれませんが(どっち?と訊くことで、子どもが「まだ遊びたい~」「アイスクリームが食べたい~」と駄々をこねる確率は低くなります)、些細な物事でも選択肢を与えてその選択を肯定することで、子どもの自己を確立させ、自己主張力を高める側面もあるように見えます。
ということで、私はアメリカの教育法を「日々子どもに選択させ、その選択を否定しないことによって子どもの自己主張力を高めている」と見ているのですが、その自説をアメリカ人の夫に披露したところ、一刀両断されました。「アメリカ人はそんなことまで考えていないよ。単に、楽しく学ばせることに重きを置いているだけだ」
それから話は、アメリカの教育がいかに「楽しさ」を重視しているか、そのメリットとデメリットについての、夫の独演会となりました。私はしみじみと思いました。成り立ちはどうあれ、アメリカ人ってほんとに自己主張が強いよな、と。日本人的穏便さで聞き役に回っていると、あっという間に会話の主導権を奪われてしまいます。
※AERAオンライン限定記事
◯大井美紗子
おおい・みさこ/アメリカ在住ライター。1986年長野県生まれ。海外書き人クラブ会員。大阪大学文学部卒業後、出版社で育児書の編集者を務める。渡米を機に独立し、日経DUALやサライ.jp、ジュニアエラなどでアメリカの生活文化に関する記事を執筆している。2016年に第1子を日本で、19年に第2子をアメリカで出産。ツイッター:@misakohi
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