アメリカで暮らしていると面倒事がいろいろありますが、日本に住んでいたときよりラクになったこともあります。そのひとつが、「解散」です。
どういうことかといいますと、たとえば友人とカフェでお茶をしたとき。お会計を済ませ、店を出る。その後友人は店の東へ、自分は西へと向かうとしましょう。そういう場合、ではさらばといきなり立ち去る日本人は少ないのではないでしょうか。多くの人は、お互い背後の相手に手を振りながら別れます。「今日は楽しかったね」「ほんとにね」「また会おうね」「うん会おう」などと言いながら半身をねじって後退する様子は、絶対に背後を取らせない忍者のようであるとかないとか。
あるいは、自宅に人を招いたとき。そろそろお開きと相成ると、主人は客人を玄関まで見送りに行きます。「今日は楽しかったね」「招待ありがとう」「また来てね」「いや次は我が家に」と会話を交わしながら、客人は主人に背中を見せないよう、ゆっくりじわじわ退出します。主人のほうも、バタンと音を立てて閉じないようにドアをゆっくりじわじわ閉めていきます。お互いドアの隙間から相手の姿が見えなくなるまで、笑顔で手を振り続けます。
ビジネスの場でもそうです。私が以前勤めていた会社では、相手の姿が見えなくなるまで頭を下げて見送るべしという決まりがありました。エレベーターの前で見送るときはドアがぴっちり閉まるまでお辞儀をし、会社のビルを出て見送るときは、客人が遠くの角を曲がるまで深々と腰を折って見送りました。自分が見送られる側になったときは、背後で先輩方が直立不動のまま頭を下げ続けているのに恐縮し、スマホを取り出して次の目的地を確認したいところをぐっとこらえて、競歩の速度でその場を立ち去ったものです。
このような“解散の儀式”を経ないと、我々日本人はその場がうまく締まらないような気がしてしまいます。いや、儀式なしだと締まりすぎてしまうというべきか。これにて解散、さようなら!とくるり背中を翻して別れるのは、不躾だし味気ない。それに、立ち去ってから後ろを振り向くと相手も同じタイミングで振り向いていた──なんてことが起こると、別れがたさを共有できているようで嬉しいものです。
ただ、この時間をかけた丁寧な解散は、子ども連れだといささか面倒なことになります。子どもも、歩き始めて間もない子どもらは、まるで流れる水のよう。ひとところに留まることができません。大人が玄関先で「今日は楽しかったね」などとおしゃべりしようものなら、「きょう」のところで大人の腕をすり抜け、「は」で下駄箱の扉をばーんと開き、「た」で靴磨きクリームのフタを開け、「の」でクリームを口に含む。大人が解散に時間をかけるほどに、破壊と混沌が進みます。
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アメリカだと、解散は至極簡単です。ハグや握手を交わし、バイ!と手を振り、解散。That’s it。その後、背後を振り返るようなことはありません。アメリカに来たばかりのころ、それを知らずにショックを受けたことがあります。アメリカ人の友人と笑顔で別れた数秒後、日本にいたときの調子で後ろを振り返ったら、相手は能面のような顔でスマホを確認していたのです。見てはいけないものを見てしまったようで、急いで顔を背けました。アメリカではバイ!と別れたらそこですべて終了。その後、相手に見られることは想定していないのです。ハグ・握手というわかりやすい区切りの動作があるからかもしれません。そのときは文化の違いを寂しく思いましたが、段々さっぱりしていてラクだなと思うようになりました。
日本式とアメリカ式、どちらがいいというものではありませんし、私自身はどこまでいっても日本人ですから、アメリカでも日本人の友人と別れるときには相手の姿が見えなくなるまで手を振ります。ただ、もしすべての解散をアメリカ式に行うことができたら生涯100日分くらいは時間を節約できるんじゃなかろうか、なんて思いもたまに頭をもたげます。水のように流れ出す子どもらを腕に抱えているときは、特に。
※AERAオンライン限定記事
◯大井美紗子
おおい・みさこ/アメリカ在住ライター。1986年長野県生まれ。海外書き人クラブ会員。大阪大学文学部卒業後、出版社で育児書の編集者を務める。渡米を機に独立し、日経DUALやサライ.jp、ジュニアエラなどでアメリカの生活文化に関する記事を執筆している。2016年に第1子を日本で、19年に第2子をアメリカで出産。ツイッター:@misakohi
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