■思春期の葛藤、抱える姿
旧日本軍のスパイとして中国で情報活動に携わったとされ、「男装の麗人」として知られる川島芳子(1907~48年)の断髪前の姿を収めた写真が新たに見つかった。中国・清朝の王女として生まれ、旧制松本高等女学校(現松本蟻ケ崎高)で一時学んでおり、10代の頃に松本市などで撮られたとみられる。研究者は「思春期の葛藤を抱えた少女時代の姿をとどめる貴重な写真」と評価している。
写真は2枚あり、市文書館の木曽寿紀専門員(31)が個人で所有。それぞれインターネットオークションで入手した。洋装で傘を差し、和服姿の女性と写った1枚は、川島家の「山荘」があった松本市浅間で1924(大正13)年に撮影した―と台紙に記してある。芳子は17歳ごろで、木曽さんは「きりっとした目つきが印象的だ」。都内の新聞記者の遺族が所持した古い写真帳に含まれていた。
もう1枚は、シラカバにもたれ掛かった和服姿で、裏に「大正15年春 川島芳子姫 断髪前」とある。木曽さんによると、芳子の断髪は25(大正14)年で、撮影者の書き損じとみている。「姫」と敬意を払っており、近しい人物だったと推測する。
川島芳子に詳しい二松学舎大非常勤講師の阿部由美子さん(43)=中国近代史=は、「世間で大きく取り上げられるのは断髪以降で、それ以前の写真は比較的少なく貴重だ」と指摘。今回の写真の時期は、松本高女を退学し、松本出身の養父川島浪速(なにわ)(1866~1949年)の下で秘書役をしていた頃という。
芳子は25年11月に突然、丸刈りにして周囲を驚かせた。阿部さんは、松本に駐屯していた旧陸軍歩兵第50連隊の将校との恋がうまくいかなかったことなどで「フラストレーションが爆発した」とみる。
27年にはモンゴルの王族に嫁いだ。直前に開かれた送別会で「実は気が進まない。信州は良い所だし、そばがうまいから、信州に住んでそば屋の女将(おかみ)となって平和に暮らしたい」と語っていたという資料が市文書館に残る。木曽さんは「この後に波乱の生涯が待っている。それを考えると何ともいたたまれない思いだ」と話している。
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〈川島芳子〉 清朝の粛親王の第14王女として北京に生まれた。1913(大正2)年、満蒙(まんもう)独立を画策し「大陸浪人」と呼ばれた川島浪速の養女となった。清朝の再興を期し、陸軍特務機関の下で情報活動に従事。31年に満州事変が起こると、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)の妻婉容(えんよう)を脱出させるなどの工作をし、第1次世界大戦期の女性スパイにちなみ「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた。48(昭和23)年、対日協力の罪に問われ、北京で処刑されたとされる。
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