南樺太(現サハリン島の南半分)は、日露戦争後の明治38年(1904年)以降、約半世紀の間、大日本帝国が占領統治した。同島は北海道と同じく大自然の宝庫であり、ヒグマの密生地帯であった。
樺太のヒグマはおとなしく、人間に向かってくることは滅多にないと長らく言い伝えられてきた。しかし、筆者が地元紙『樺太日日新聞』(明治43年~終戦)をほぼすべて閲覧した印象では、決してそんなことはない。
冬が長く、夏の極端に短いこの地方では、いったん果実が不作となると、里に下りて見境なく牛馬を喰い殺し、場合によっては人間をも襲った。
樺太庁管轄のため、北海道庁の統計資料に出てこない、従って専門家の間でもほとんど知られていない、樺太における人喰い熊事件はいくつもある。今回はそれを紹介していきたい。
昭和に入ると、開発が北部まで進行したことで、ヒグマの生息地が極度に脅かされるようになった。そのため、「恵須取人喰い熊事件」(昭和4年)など、頻繁に熊に食われる事件が起きた。
■恵須取人喰い熊事件
以下、2つの事件は、おそらく同じ加害熊による事件と思われる。
昭和4年8月10日頃、恵須取町の朝鮮人・朱昌魯が、付近の小川にヤマベ釣りに赴いたところ、川岸より5~6間離れた草むらに巨熊が陽を浴びて昼寝してるので、朱は肩にした猟銃の狙いを定めて一発放ったところ、弾は急所をはずれ腹を貫いた。
熊は棒立ちになって一声吠えたかと思うと、朱を目がけて飛びかかった。朱はやみくもに鉄砲をぶっ放したが、血に染まった熊は朱を叩き倒した。熊はそのまま森林の奥へ姿を隠した。物音を聞き、付近にいた人夫が駆けつけて応急手当をしたが、朱は間もなく絶命した(『小樽新聞』昭和4年8月11日)。
それからわずか2カ月後、再び恵須取で人喰い熊が出現する。
10月7日午前10時頃、恵須取町の杣夫(=木こり)吾妻某(46)が所要のため外出したところ、一頭の巨熊がいきなり飛びかかってきた。度胸のよい吾妻は何くそとばかりに持ち合わせの刃物をふるって大格闘を演じたが、全身数カ所に致命傷を負い、その場に昏倒した。
これを友人が見つけ、背にした鉄砲を連発して見事巨熊を射とめた。吾妻は直ちに病院へ運ばれたが、途中で絶命した(『樺太日日新聞』昭和4年10月16日)。
ここで注目すべきは、昼寝中の熊を襲った点だ。かつて樺太アイヌの間では、睡眠中の熊を仕止めるのは山の神に対する不敬であり、必ず祟りがあると言われていた。
■多蘭泊人喰い熊事件
たとえば「多蘭泊人喰い熊事件」(明治43年)もそうだ。この事件では功名に焦る村人がこの掟を破り、熊の逆襲にあって1名が死亡、1名が重傷を負った。
明治43年9月24日、樺太西海岸真岡町の南に位置する多蘭泊の清水吉五郎(38)、松本彦太郎(21)、コタンタリの3名が、熊狩りのためヒトシナイの深山に分け入り、巨熊が寝ているのを発見した。
3名は発砲したが、弾は急所を外し、巨熊は猛然として襲いかかった。吉五郎は見る間に殴打されて即死を遂げ、松本もまた重傷を負って倒れ、コタンタリだけがわずかに逃れて集落に危急を報じた。
多蘭泊およびクメコマイのアイヌらは復讐すべく、22名が深山に分け入り、約20日間にわたってくまなく捜索したが遂に発見できなかった(『樺太日日新聞』明治43年9月28日、10月9日)。
それから1年後の明治44年9月10日のことであった。南部ロクスオイで日本人漁夫が山中で巨熊と遭遇、2発まで命中したが、逆襲を受け、前方わずかに5尺まで迫られて、まさに噛み殺されそうになった危機一髪、最後の第3弾が見事に命中、巨熊は絶命した。
くわしく検視したところ、昨年の格闘のときに負ったかすり傷や、その年齢が7歳であったことを勘案して、この巨熊が清水吉五郎を喰い殺した猛熊であることが判明した(『樺太日日新聞』明治44年9月29日)。
加害熊は3メートル60センチもある稀有の巨大熊であった。
ところで、この事件では樺太アイヌ古来の風習が紹介されている。
《熊害死体その復讐を終わらざる限り送葬し得べからざるものなるより、前記吉五郎の死体もまた今日に至るまで一ヶ年間現場に放置せられあるの悲惨の状態なりき》(前掲『樺太日日新聞』)
つまり、加害熊を討ち取るまで、被害者の死体は野ざらしにされたというのである――。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
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