吉野雅邦〈※1〉は「あさまさん」と、無期懲役刑で服役している千葉刑務所で呼ばれている。
半世紀前の1972年2月19日から28日まで、軽井沢の河合楽器の保養所、あさま山荘に立て籠もった連合赤軍メンバー5人のうちの一人だからだ。
連合赤軍は、前年の12月21日、群馬県の榛名(はるな)湖近くの山小屋で結成された。武装闘争による革命を目指す、赤軍派と革命左派という2つの小グループが統合し、総勢で約30名。銃や爆弾を持っていた。
警察の捜査が及ぶにつれて、迦葉(かしょう)山、妙義山とベースを移動したが、その間に「総括」の名の下に12名の同志を死に追いやっている。
山に来ても化粧して指輪をしている。都市に活動に出たときに銭湯に入った。そんなことが総括のきっかけとなり、殴られたり、絞殺されたり、冬の山中で縛られて放置されて凍死したり、アイスピックで刺されたりして死に至った。
吉野雅邦は連合赤軍の7名の中央委員の一人であり、そのすべての死に責任を負っている。死者の一人である金子みちよ〈※2〉は、吉野の妻であり、娘を身籠もっていた。
■【出逢い】単身湖畔を散策し、砂浜に「みちよ」と木の枝で描いた
吉野は獄中で、327ページに及ぶ手記『省察ーー「連合赤軍」私史』を書いている。吉野とは千代田区立麹町小学校、中学校の同級生で、事件後『あさま山荘銃撃戦の深層』(講談社文庫)などを著した、作家の大泉康雄氏が、その手記を託されていた。
《彼女ーー金子みちよは、私が組織に入る約二年前に出逢い、当初は私の全存在を賭けて愛し続けようと、心に誓った女性でした》(手記より、以下同)
と始まる手記は、連合赤軍結成に至る前史で、金子との恋愛が細やかに描かれている。
1967年、入学した横浜国立大学で、吉野は混声合唱団に入った。そこにいた金子に、吉野は理想として思い描いていた女性像を見た。
《(一年生だけで行ったキャンプで)単身湖畔を散策し、砂浜に「みちよ」と木の枝で描いた上に寝そべったものの、やがて頭上の少し離れた所に足音を聞きました。慌てて起き上がると、彼女が一人通り過ぎていったところでした》
8月、合唱団全体合宿で行ったユースホステルのロビーで、吉野は金子に告白した。
《「これから個人的に付き合ってほしい」との申し出に対する彼女の返答は、「少し考えさせて」というものでした》
金子はすぐにも応じたい思いだったが、恋愛経験の豊富な友人に、告白されたときすぐに応じると軽く思われる、とアドバイスされていた。
合宿の3日後、自宅にいた吉野に、金子から電話があった。《特に用事はないの、なんとなく電話をしたくなっちゃって》。そして、甘えた声で《いつボーリングを教えてくれるの?》と金子は聞いた。清里からの帰途の車中で、吉野は金子にボーリングを教える約束をしていたのだ。
デートの当日、金子はボーイッシュに髪を短くし、ノースリーブのレモンイエローのワンピースを着て現われた。
その後もデートを重ねる一方で、吉野はベトナム戦争について、思い悩んでいた。
10月8日に、時の首相・佐藤栄作が、ベトナムを訪問することを知り、吉野は阻止行動へ参加する。
羽田空港に迫った吉野たちは頭にヘルメットを被り、角材を手にしていた。装甲車で塞がれた弁天橋を越えていこうと試みたが、機動隊の逆襲を受けて、最前列にいた吉野は頭を割られてしまう。女性に抱えられてデモ隊に戻ると、そこにいた金子に連れられて病院へと向かった。
《医師から「パンツも脱がないと」と言われた途端、そばの看護師にずり降ろされてしまいました。すぐ脇に立つみちよが気になり、心の中で “向こうを向いていてよ” と願いましたが、彼女はしかと私のその部分に視線を注いでおり “ああ、見られちゃったよ” と身が縮む思いでした》
11月下旬、大学裏の丘陵で、2人は初めてキスをした。
1968年1月、吉野は佐世保での原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争への参加を決め、金子には告げずに現地へ。だが、宿泊地である九州大学に金子が現われた。
金子は吉野の姿が見えないことに胸騒ぎを覚え、周囲に聞いて回り、居場所を突き止めて追ってきたのだ。
その後、吉野は闘争に参加しつつ、金子への愛を深めていった。6月、西伊豆・妻良(めら)への旅で2人は結ばれた。
連合赤軍の指名手配写真(1972年)。吉野は下段、右から2人め
■【同棲】もしどちらかを選ばなければならない状態になったら、僕は闘争のほうを選ぶと思う
1969年、全国に広がっていた全共闘運動によって、横浜国大も学生がキャンパスをバリケード封鎖し、ストライキを強行した。大学当局との団体交渉で逞しく見えた、先輩の柴野春彦〈※3〉の誘いで、吉野は革命左派に加盟する。
《工場労働者となって革命運動に挺身すると決意しつつ、他方ではみちよとの結婚生活も思い描き一層の関係の深化を念じていたわけで、この時点では、それが矛盾するものと気付かなかった》
吉野は大学を辞めて東京・大田区の精螺(せいら)会社の工員となった。同時に実家を出て、アパートで金子との同棲生活に入る。8月初旬だった。
吉野は革命左派の東京南部地区に所属した。その責任者が坂口弘〈※4〉だった。
坂口からの指示で、9月4日の愛知揆一外相の訪ソ訪米阻止のゲリラ闘争に、吉野は参加を決意する。幸せな同棲生活は、1カ月で終わった。
《「私と闘争とどっちが大事なの?」
そう詰め寄る彼女にこう答えたのです。
「どっちが大事という問題ではないと思う。それでも、もしどちらかを選ばなければならない状態になったら、僕は闘争のほうを選ぶと思う」》
前夜に海を泳いで渡り、羽田空港に侵入。外相が乗った特別機の離陸直前に吉野、坂口ら5人は、滑走路に躍り出て「反米愛国」の旗を掲げた。吉野は火炎ビンを《燃え盛る布が、手の甲を蔽(おお)い皮膚を焼け焦がす痛みを感じながら》投じ、全員が逮捕された。
金子は差し入れや弁護士の手配を、吉野を支えたい一心でおこなった。ほかの逮捕者のぶんまで、金子が背負い込むことになり、いつしか革命左派の活動家になっていく。
12月24日に、吉野らは保釈された。吉野は再会できた喜びから金子のアパートに入り浸り、革命左派の拡大党大会を欠席した。
その後、金子は救援用の資金20万円を電車の中で掏(す)られてしまう。これらの結果、吉野と金子は権利停止処分を受ける。処分を下した、革命左派のトップになっていた永田洋子(ひろ子)〈※5〉に金子は憤慨した。
《私が東池袋にアパートを借りたのも、本当はあなたの側に居て、毎日でも面会に行きたいと思ったからなのお。それでも、他の人に悪いと思って、週一回で我慢してた。寒くて、何も無いアパートで、食べるのも寝るのも切り詰めて、みんなのため、組織のために活動したのよ。それは二十万円どころじゃないはずよ。そんなに二十万円にこだわるのなら、バーにでもキャバレーにでも行って働き稼いで、二十万円突き返してやめてやる》
涙をこぼしながら、金子は吉野にこう迫った。
《ねえ、組織をやめて、二人で喫茶店をやらない。そうしよう、ね》
2人が所属していた合唱団が、文化祭で綿アメ店を開いたとき、吉野は《綿を通常の五割増しにしたり、カップル客には二本で五十円に割引するなどサービスに努めた》《お客さんに喜んでもらえることが、これほど楽しくうれしいこととは思わず、嬉々として立ち働きました》
そんな姿を、金子は覚えていた。だが吉野は、《……やめるわけにもいかないよ》と返答し、沈黙したのだった。
大泉に届いた吉野の手紙
■【山へ】少し淋しげな雰囲気も感じられて、思わず抱きしめたい衝動に駆られました
1970年12月18日、獄中の革命左派議長、川島豪(つよし)〈※6〉を奪還するための銃を奪おうと、東京・板橋区の上赤塚交番を、革命左派の柴野ら3人が襲った。警官は発砲し、柴野が死亡、2人が重傷を負った。
この日は羽田闘争の公判日だった。坂口は、出廷せず地下潜行しようと提案した。逃走生活に入れば、金子と別離することになる。吉野は躊躇したが、押し切られた。
坂口と吉野は、変装のためにパーマをかけることにした。
《「クマ」という仇名のむつけき男(注・坂口のこと)が急に天然パーマふうになって(中略)思わず笑ってしまいました。坂口も少し照れながら、「何だよ」と口をとがらせて抗議しておりました》
栃木県真岡市の塚田銃砲店を、吉野ら6人が襲ったのは、1971年2月17日午前1時過ぎ。電報だと偽って出刃包丁で脅して押し入り、散弾銃10丁、空気銃1丁を奪った。
6人のうち2人が逮捕され、自供。首謀者の永田、坂口と実行犯の吉野らは指名手配された。警察の捜査が広がるにつれて、群馬、新潟、札幌にまで逃げつづけた。
5月末、彼らは奥多摩の小袖の廃屋をベースとした。6月、金子が小袖にやってきた。吉野とは半年ぶりの再会だ。
《それまで見たことのないアイ・シャドーを塗っていたようですが魅力的で、また少し淋しげな雰囲気も感じられて、思わず抱きしめたい衝動に駆られました》
金子とともに、早岐(はいき)やす子〈※7〉が山に入った。早岐は吉野のことを「この人?」と金子に聞いた。金子が頷くと、早岐は「わぁ」と声を上げ、吉野に「よーく聞かされてきました」と、悪戯っぽく笑った。
《女性にそんな見つめられ方をされたことが全くない私は、大変気恥ずかしく思いましたが、二人の様子から、みちよが日頃から私のことを早岐さんに自慢げに話していて、早岐さんが実物の私を目の当たりにし、その通りだったと感じているのがわかり、悪い気はしませんでした》
6月6日、バンガロー近くの鍾乳洞での銃の試射の最中に、向山茂徳〈※8〉が逃亡した。
山梨県の塩山(えんざん)に移動し、さらに適地を探すための調査が始まった。その最中の7月10日ごろ、吉野と金子は廃屋となった小屋で2人きりになり、裸になって抱き合った。その最中に吉野は、ロウソクの灯りに群がる無数の蛾の激しい動きに目を奪われる。
《蛾に見惚れている間も、私は彼女に対する営みは続けていました。気付くと、彼女は蛾よりも激しい動きの中にあって、やがて両脚で宙を蹴り始めました。意識を戻された私はその振動によって急速に頂へと押し遣(や)られそうになり、いつものように切迫している意思表示をして、身を引き離そうとしました。
その刹那です。彼女の両脚が私の身体を太腿で巻き付け、かつてない程の力で絡め取られ引きつけられました。私の全身を自分の内に取り込みつくそうとするかのような強い締め付けの中で、頭が白くなり私は爆(は)ぜました》
このときに金子が受胎したことが、後になってわかる。
翌朝、「体を洗おうか」と吉野が声をかけ、2人は裸で川に入った。7、8人の登山者が彼らを見つけて騒いだが、2人は水浴びを続けた。
逮捕された吉野
■【総括】目の前で焔の中に投げ込まれるのを、見つめているしかありませんでした
7月13日には早岐が逃亡し、その後ベースは神奈川県の丹沢に移動した。
急拵(きゅうごしら)えのビニール小屋。6人がシュラフにくるまり、吉野と金子は隣り合っていた。
《横になってしばらくして、みちよが顔を寄せてきたので、私はそれに応じて接吻を交わしました。彼女はすぐに私の胸元へと唇を滑らせます。そこが私のウィークポイントと知ってのことです》
ちょうどそのとき、吉野は戸口から寺岡恒一〈※9〉に呼び出された。慌てて身づくろいをした吉野に、寺岡は早岐と向山を殺害する、と告げた。
《「殺(や)る?……殺す?……なぜ……」と、懸命にそれを咀嚼(そしゃく)しようと試みます》
吉野は結局、実行メンバーに加わった。8月3日に早岐が、10日に向山が殺害され、2人は千葉県の印旛(いんば)沼付近の山林に埋められた。
12月、連合赤軍が結成されてからは、総括リンチによる死が続いた。お腹に子どもがいることに甘えて、自らを総括しようとしていない、という理由で金子は殴られた末に縛られた。
吉野はうわごとを言う金子を、「うるさい、黙ってろ」と一喝した。金子は「私は山に来るべき人間ではなかった」という言葉を残して、1972年2月4日、死に至った。享年24。早岐から数えて13人めの死者だった。
死の3日後、金子の衣服が焼却された。吉野との初めてのデートのときに着ていた、レモンイエローのワンピースもその中にあった。
《目の前で焔の中に投げ込まれるのを、ただじっと見つめているしかありませんでした。その時に初めて、彼女がそれを山の中にまで持ち運んできていたことを知ったのでした》
金子の遺体を埋めるとき、吉野は脚を持った。吉野は手を離すことができず、遺体を頭から落としてしまった。そのとき、お腹の中で8カ月まで育っていた、娘の悲鳴が聞こえた気がしたという。
※
吉野は昨年10月、うっ血性心不全になり、現在は東日本成人矯正医療センターで治療を受けている。昨年末に吉野から大泉氏に届いた手紙には、これで何度めだろうか、「金子みちよとの出会い」の思い出が、またも克明に記されていた。
※1 吉野雅邦
1948年生まれ。1972年2月28日、あさま山荘事件で逮捕。1983年に無期懲役が確定
※2 金子みちよ
1948年生まれ。1972年1月20日に総括要求され、2月4日に死亡。妊娠8カ月だった。享年24
※3 柴野春彦
1946年生まれ。上赤塚交番を襲撃時、警察官の発砲により死亡。享年24
※4 坂口弘
1946年生まれ 連合赤軍では森恒夫、永田洋子に次ぐナンバー3だった。1972年2月28日、あさま山荘事件で逮捕。1993年に死刑判決が確定
※5 永田洋子
1945年生まれ 1972年2月17日、森とともに逮捕され、1993年に死刑判決が確定。2011年に東京拘置所内で病死。享年65
※6 川島豪
1941年生まれ 革命左派の指導者。武装闘争を指揮し、1969年12月8日に逮捕。1979年に出所し、し尿汲み取り業の会社を経営。1990年病死。享年49
※7 早岐やす子
1950年生まれ 8月3日に拉致され、吉野らに絞殺される。享年21
※8 向山茂徳
1951年生まれ 8月10日、吉野らに絞殺される。享年20
※9 寺岡恒一
1948年生まれ 1972年1月18日に死亡。享年24
※敬称略
文・深笛義也
ノンフィクション作家、『2022年の連合赤軍』(清談社Publico)著者
写真・朝日新聞/『あさま山荘銃撃戦の深層』講談社文庫