「支援者の方が作ってくださったものです。私のことをもっと知っていただくために、ぜひご一読ください」
今から26年前の1995年、本誌が野田聖子衆院議員(現・幹事長代行)を議員会館で取材したときのこと。取材が終わると、野田氏は本誌記者ににっこり笑い、一冊の本を手渡した。
タイトルは、『野田聖子 政治解体新書』(マキノハチロー著、コパル出版)。1990年11月30日に発行された野田氏の “応援本” だ。当時29歳だった野田氏へのインタビューと、多くの写真で構成されている。
自民党総裁選に立候補し、一挙手一投足が注目される野田氏だが、この本が刊行されたときは、1990年2月の衆議院議員選挙に旧岐阜1区から立候補して落選し、浪人中だった。
タイトルのとおり、この本を読めば、野田氏の政治信条を深く知ることができる。たとえば、《(結婚というのは)田中一郎さんと山田花子さんの新しい家、新しい家庭を祝福するのが本筋なのに、実際は(中略)女の人は家に嫁ぐといった感覚で(中略)生きているのではないでしょうか》と問題提起。選択的夫婦別姓を推進している現在に通じるものだ。
しかし、“解体” されているのは野田氏の政治信条だけではない。往年のタレント本のように、アイドル風のポーズや、膝上丈のスカートの美脚写真がたっぷり掲載されているほか、「野田聖子の美的徹底解剖」というコーナーでは、「プライベートのすべてを聞き出すゾー!」というキャッチのとおり、野田氏の恋愛遍歴が包み隠さず語られているのだ。
内容の一部を紹介すると……。
《(結婚したいと思った)一人は大学一、二年の時つき合っていた彼で、もう一人はやっぱり大学二年の時ぐらいから卒業までつき合ってた。本当、結婚しようかと思ってた。あこがれてた。結婚に》
《私、男の人好きだもの。っていうか、それは変な風に聞こえるけど、こういう仕事しているから、皆男まさりだとかさ、男嫌いだとかいう人もいるけれども、そんなこと私は思わないわ》
また、こんな発言も。
《あのね、普通は(アメリカに)一年いると、そこそこ話せるようになるんだけど、私の英語力は一年ではしゃべれないくらい話せるようになったの。何でかっていうと、彼氏がいたから》
と、唐突に野田氏が17歳、アメリカ人の彼氏・リッキーが14歳のときの恋愛体験が語られる。ダンスパーティ、オートバイでのドライブ、指輪(スクールリング)の交換――。
その後、野田氏は日本へ帰国し、リッキーとは文通を続けたものの交際は消滅。そして、あるとき、リッキーの母親から葬式の案内が届く。リッキーは交通事故で亡くなったというのだ。
壮絶な恋愛体験を語ったこの本のおかげもあってか、1993年7月の衆院選で、野田氏は見事に初当選を果たした。だが、今回の自民党総裁選では、野田候補は候補者4人の最下位になるとみられている。政治部記者が語る。
「岸田文雄前政調会長は、党役員任期を連続3期3年に限定する考えを示し、幹事長職について5年を超える二階俊博氏の続投にノーを突き付けました。
これに二階さんは激怒し、“岸田潰し” のために、野田氏を候補者に擁立したのです。野田氏を立てれば、岸田氏の票を少しでも食えると判断したからです。
一方の野田氏も、過去3度の総裁選では推薦人が集まらず、立候補すらできなかったところ、今回は出馬にこぎつけた。本人は『かませ犬でもいい』と思っているのではないか」
本書に収録されている演説で、29歳で浪人中の野田氏は、「青臭い考え方」だと断わったうえで、まっすぐにこう語っている。
「これから私が、どれだけのことができるかわかりません。でも全国には、私と同じように一生懸命政治を考えている人間が、少なくとも十人はいました。三十代で今回の総選挙に立候補した人が、十人もいたってことなんです。
だから少しずつそういう人たちとネットワークを作って、これからの日本を、私たち日本人を守って行く政治を勉強して、国民が楽しく生きて、健康に生きて、お互いに日本に生きていたことを倖せに感じるために、やって行きたいなあーって言うのが、私たち若い政治を志す者の気持ちなんです」
かつての “自民党のマドンナ” は、永田町の荒波にもまれ、数多くの推薦人を集め、総裁選に打って出る。
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