私は1990年代に警視庁に入庁し、外務省に出向した3年間を除くと、通算でおよそ20年間、警察官として勤務してきた。その大半、私が在籍したのは公安部である。
ふだん、公安警察がどんなことをしているかというと、「監視」と「情報収集」の2つに要約される。
実際に行われているものを挙げると、次のようなものになる。
・対象の動きを把握するため、ひたすら定点から対象を監視する
・アジトや活動拠点をあぶり出すため、尾行する
・協力者(ドラマなどで言うところの情報屋)と接触し、情報を収集する
・収集した情報の精度を高めるため裏取りを行い、真偽を見極める
・常に新たな協力者を発掘、開拓するため、さまざまな人物にアタリをつける
・対象周辺における「ヒト・モノ・カネ」の動きを徹底的に調査する
こうして列挙すると、一見華やかなスパイ映画のような仕事に感じられるかもしれない。しかし、それは思い込みで、内実は辛抱・我慢・忍耐の3文字がふさわしい地味な世界だ。
だが、そんな地味な世界にも、まれに派手な女性が紛れ込んでくる。いわゆるハニートラップだ。スパイ映画では、よくハニートラップの話が出てくる。主に女性スパイが男性に対して色仕掛けで行う諜報活動のことをいう。
結論から述べると、日本の公安がハニートラップを仕掛けることはない。その理由は単純明快で、費用対効果が悪すぎるからだ。
しかし、海外の諜報機関などでは、今なお横行しているのが現状だ。アメリカや韓国なども使うことがあるが、特にこの手口を多用するのは中国、そしてロシアだろう。
ロシアがソ連だった頃は、女性スパイを訓練所において全裸で生活させたり、同僚男性と肉体関係を持たせたりすることで、性的な羞恥心を取り去ったという。東西冷戦時代には、主にヨーロッパでソ連の美人スパイが暗躍した。
近年では、「美しすぎるスパイ」と言われたアンナ・チャップマンが有名だ。チャップマンはロシア対外情報庁(SVR)の命を受け、表向きはアメリカ、マンハッタンの不動産会社のCEOを務めながら、アメリカの核弾頭開発計画などの情報を色仕掛けで収集していた。
日本の公安がハニートラップを仕掛けることはないが、仕掛けられることはある。中国やロシアなどの国々からで、公安捜査員だけでなく、キャリア官僚や大企業の幹部なども標的にされる。
ハニートラップというと「訓練されたプロフェッショナルな女性」というイメージがあるかもしれないが、それは間違い。かつてはそういうこともあったが、現在は、わざわざ専門のハニートラップ要員を育てるようなことはまずしない。
では、どうしているのかというと、「後づけ」。対象者が好意を寄せている、あるいは気になっている女性を把握し、彼女に金銭を渡すなどして「後から協力者に仕立て上げる」という手法だ。
少々荒っぽい気もするが、これが結構な成果を挙げている。しかもゼロからプロの要員を育てるよりもはるかに楽、かつ安上がりなので、理にかなった方法といえるだろう。
■至るところに「仲間由紀恵」が……
外務省のある若いキャリア外交官(将来の大使候補)が、中国人の経営するバーに行った時のこと。バーのオーナーに好きな女性のタイプを聞かれた彼は、即座に仲間由紀恵と答えた。
すると後日、「仲間由紀恵」にそっくりの女性が至るところに現れた。自宅近くのコンビニ内で肩が触れ、外国語なまりで「ごめんなさい」と謝ってきた「仲間由紀恵」、行きつけのバーや居酒屋でたまたま隣に座った「仲間由紀恵」、帰宅時に外務省から出たところで出くわした「仲間由紀恵」、電車の中で目が合った「仲間由紀恵」……。みな同一人物だった。
怖くなった彼は警察に駆けこもうとしたのだが、正式に相談するのはキャリア外交官のプライドが許さない。そこで、かねてから面識のある私に、「裏口」からコンタクトをとってきた。
調査したところ、この「仲間由紀恵」は中国人留学生であることが判明した。バーの中国人オーナーのもう一つの顔はスパイと目されていて、外交官の話を聞くやただちに日本語ができる仲間由紀恵似の女性を見つけてきたのである。
こうした工作を日常的に行うには、相当な規模の予算や人員が必要になる。スパイ機関というのは、標的を決めたらそこに予算と人員を惜しみなくつぎ込み、あらゆる策を講じる存在だということを覚えておいたほうがいい。
ハニートラップが盛んな某国大使館主催のパーティーでは、必ずといっていいほど美しい女性がたくさんいる。公安の中でも外事課に勤務していると、こういう場に顔を出すことがある。
男性の同行者には、あらかじめ「美人がたくさん寄ってくると思うけど、気をつけてくださいね」と釘をさしておく。にもかかわらず、アルコールが入った状態で、美しい女性が近づいてくると、たちまち腰砕けになってしまう。
後日、その美人から同行者に連絡がくるのだが、誘いに乗るのは絶対危険。鼻の下を伸ばしている彼に対して、「わかっているとは思いますが、会うのは危険ですよ。ましてや、のこのこホテルまで行かないように」と強く念を押す。
こうしたことを何度も続けてくると、仕事以外のパーティーやレセプションなどの場で女性と知り合っても、まずその場の挨拶で終わってしまう。公安の悲しい性で、身構えてしまうからだ。
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以上、勝丸円覚氏の新刊『警視庁公安部外事課』(光文社)をもとに再構成しました。元公安が明かす、外国人によるスパイ・テロ・犯罪行為を水面下で阻止する組織の実態とは?
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