宮崎駿監督はどう生きたか 兄弟ゲンカに「日本刀」持ち出し、「クソコーナー」と自嘲した東映動画時代
「彼とは『竹刀の構え方はこうだ。いや違う』と、喧々諤々のやり取りをしましたね。とにかく彼は頑固でしたね」
《取っ組み合いは日常茶飯事、障子や襖はしょっちゅう破れていたし、日本刀を引き抜いて庭に跳び出したこともあった。(中略)母親の目が届かなかったからだと思う。そのぶん逆に、母親の前ではケンカしなかった。兄たち三人は、いずれも自己主張が強く、たがいに譲らず、負けん気十分だった》(『魔女の宅急便 アニメージュ特別編集ガイドブック』の「兄・宮崎駿」より)
『東映動画史論』の著者で、開志専門職大学准教授の木村智哉氏はこう話す。
「宮崎さんは入社して間もなく携わった長編アニメ『ガリバーの宇宙旅行』(1965年公開)のラストシーンで、早くも自分のアイデアが採用されています。そういった資質を示していたと思われます」
「当時の東映動画は、有望な新事業だがペースが速いテレビアニメに力を入れていました。反対に宮崎さんら長編アニメ担当は、テレビアニメ担当に比べて『仕事をしてない』『能力がないから制作が進まない』と会社から思われているだろう、という自嘲の意識があったのでしょう。そのため制作が遅れた『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年公開)のころ、宮崎さんは自班を『クソコーナー』と自称していたそうなんです。長編アニメ担当の自負と居直りの感情から出た言葉だと思います」(同前)
「集団創作の末端ですから、新人の宮崎さんがメインスタッフとして力を発揮するまでに数年かかりました。東映動画には、才能あふれるアニメーターや労働組合の仲間たちが集結していました。
「賃金格差があった当時を振り返り、後年の宮崎監督は『札束を追うやつ』と、それを『冷ややかに見て腹をすかしているやつ』に社内が分かれてしまった、と苦々しく述懐したことがありました」(木村氏)
「結局、我々アニメーターは “下請け” だけど、それを超えて宮崎さんは作家になった。卑下していたかもしれないけど、東映動画時代から間違いなくエリートだった。異質なくらい腕が違いましたよ」(前出・香西氏)