たとえばドッグフードとシリアルを間違えて食べたり、遠征にベルトを忘れたり、待ち合わせ場所を間違えたり。
「天然」と思われるエピソードを選手にいじられても、城福浩監督はただニコニコと笑っている。
池田誠剛フィジカルコーチの指導の下、鮎川峻が1キロを超える重量のある縄跳びを振っていた。それに城福浩監督が興味をもったようで……
しかし、不甲斐ないプレーを見せると激高し、ハーフタイムで怒鳴ってしまうことも少なくない。練習でも選手に対して厳しい言葉で指摘し、時には練習場から外に出すこともある。普段は温厚で、記者のどんな質問にも真摯に答える監督を知っているから、スイッチが入った時の変化に驚くことも少なくない。
鮎川からロープを受け取って縄跳びを始めた。だがなぜか、鮎川とは逆回転。正解はもちろん、鮎川のやり方なのだが……
昭和36年生まれ、ゴリゴリのスポ根世代である監督の厳しい愛情は、令和の若者にとっては壁になる。厳しい言葉に下を向き、反発力の表現も得意ではない。「僕は褒められて伸びるタイプ」という言葉も使われる時代に、昭和の情熱は通じづらい。
そのギャップを埋めようと、城福浩はとにかく会話する。レアンドロ・ペレイラから鮎川峻まで、レギュラーとかサブ組とかは関係なく、聞く、話す、聞く、話す。その繰り返しである。
多くの選手たちと会話を重ねている城福浩監督だが、特にチームの中心である青山敏弘とのコミュニケーションは多かった
「サイドはやりたくない」と直訴した森島司の意気を認め、シャドーで起用した。
守備戦術の理解が進まないレアンドロとの議論は最後まで続いていたが、試合では彼の能力を信頼して送り出した。
2019年の森島がブレイクするとシーズン前から信じた人は少なく、松本でほとんど点がとれなかったレアンドロ・ペレイラが今季、広島で花を咲かせると予言した人もいなかった。彼らの能力を引き出すためにどうすればいいのか、考えに考え抜いたのは指揮官その人だ。
守備に課題を抱えていた川辺駿をサイドで使い、ボランチをやるなら成長が必要だとメッセージを与えた。
練習中に何度も口論したハイネルを最も高く評価していたのも、「ベンチに入っていなくても先発の可能性はある」と野津田岳人を励まし、チャンスを与えたのも城福監督だ。
甲府時代から監督を知る佐々木翔や柏好文は「めちゃくちゃ、怒られました」と若き日々を語る。だが結果として、佐々木は左ストッパーとして大きく成長し、FWからワイドにコンバートされた柏は屈指のサイドアタッカーとなった。
11月20日、C大阪戦前日のトレーニング。実は城福浩監督は今年も、トレーニングを報道陣にフル公開。コロナ禍がなければ、サポーターに対してもフルで公開したはずだ。こういう姿勢は今、Jリーグでは希少である
城福監督の言葉は、決して耳障りはよくない。オブラートに包むことなく、ストレートに選手の心を突き刺す。ストレスも溜まる。文句の一つもつぶやきたくなる。
でも、時間は確かにかかるが、やがて気づくものだ。その厳しさの裏にあるものを。城福浩監督の忖度のない言葉に包まれているものを。
近しい親族のご不幸によって監督がチームを離れた10月18日の神戸戦で2-1で勝利した後、レアンドロ・ペレイラは「監督のためにという気持ちは当然、あった」と発言。監督が戻ってきた時、青山敏弘は「みんな待っていた」。森島司は「だからこそ、勝たないと」。そして佐々木翔は「このことがあったから、みんなの中に自覚や自立心が芽生えた」。
選手の誰もが哀しみに寄り添い、「父」のために闘った。
どんな時でも取材は断らない。毎日毎日、ディスタンスをとりつつマイクの前に立った。時には20分にも及ぶ取材時間になりつつ、指揮官は熱弁を振るった。全てはチームとサポーターのために
「この1年、コロナ禍の中で、我々だけでなくどんな人々も難しい状況に追い込まれた。にも関わらずサポートして下さったサポーターの期待に応えきれなかった。本当に申し訳ありません」
シーズン総括会見で指揮官はこう発言した。
試合内容と勝ち点が見合っていない。逆転勝ちが一つもないし、3連勝もない。順位も満足できない。
だが一方で、森島や大迫敬介、東俊希、浅野雄也。東京五輪代表候補を複数輩出し、松本大弥や土肥航大、そして特別指定選手の藤井智也も台頭した。苦しみながらも「育成」は前進している。
「君たちを愛している」などとは言わない。課題をストレートに伝え、言葉に忖度もない。嘘をつくのが下手で、気持ちをごまかす言葉も使えない。そんな昭和の厳父・城福浩と共に、2021年も広島は闘う。
「改善点は明確。目指すサッカーは変わらないが、プレシーズンのやり方も変えるし、立ち位置の変更もありうる」
城福浩は今年最後の記者会見でこう発言した。「立ち位置の変更」などの戦術部分は普通、この時期には黙っているものだ。
やはり彼は、嘘がつけないのである。
城福浩(じょうふく・ひろし)
1961年3月21日生まれ。徳島県出身。高校時代にはU-19日本代表候補に選出。早稲田大から富士通に進み、1995年には富士通サッカー部の監督に就任。その後、社業に専念し工場のリストラを担当するなど厳しい仕事に取り組んだ。1999年、FC東京のプロ化に参加。U-17日本代表を率いて2007年U-17ワールドカップに出場。FC東京・甲府の監督を経験した後、2018年から広島監督へ。
【中野和也の「熱闘サンフレッチェ日誌」】