青山敏弘のJ1通算400試合出場を達成(5月8日・鳥栖戦)はまぎれもない偉業だ。
どこにも移籍せず、同一クラブだけで400試合出場を達成したのは史上5人目。2年目までにリーグ戦デビュー(J2含む)できなかった選手の記録達成は史上初。4度の手術を乗り越えて辿り付いた400という数字は、黄金の輝きを放つ。
青山の2年目までの公式戦出場はナビスコカップの1試合だけ。3年目までに活躍できないと次の契約が難しくなるのが当時のJリーグの不文律。プロ2年目に左膝前十字靱帯断裂の大怪我(全治8ヶ月)を負っていたとはいえ、それが言い訳になる世界ではない。
「クビになる覚悟はありましたね」
J1通算400試合達成から約1ヶ月後の6月4日、青山は15年前のことをそう振り返る。
「とにかく全力でやろう。その上で広島をクビになったら、それは仕方ないと思っていた」
ただ、チャンスが与えられなかった2年7ヶ月の間、彼は腐っていたわけではない。
「練習で自分のベスト以上のものを出し尽くす」と決意。上半身を徹底的に鍛えあげて鋼の肉体を作り上げ、誰よりも激しくボールを蹴り続けてキックの精度を高めた。
誰よりも長く練習場に居残り、徹底して自分を高める努力の成果により、青山は誰よりも走れる運動量と一発でゴールに迫れるキックを身に付けた。
その力と可能性を、2006年6月に就任したミハイロ・ペトロヴィッチ新監督(現札幌)の目が鋭く射抜く。
7月19日の対名古屋戦、新指揮官は自らのJ1リーグデビュー戦を20歳の若者に託し、そして勝利を握った。それが青山敏弘にとってのJ1通算1試合目となった。
「J1通算500試合出場も、視野に入る?」
そんな質問に、青山敏弘はニコリともせず答えた。
「大事なのは、先のことよりも今だから。もっと高いパフォーマンスでチームを勝利に導きたい。そのチャレンジなくして、プロにいる意味はない」
そんな言葉を吐き出した後、さらにこう言った。
「うーん、またトレーニングしたくなったな(笑)」
これが、青山敏弘なのである。
青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。作陽高2年生時の全国サッカー選手権岡山県大会決勝対水島工戦の延長前半に放ったシュートがゴール奥のポストに当たって飛び出した。当然ゴールであり、当時のルールではこれで作陽高の勝利となるはずだったが、当時の主審がゴールを認めず。PK戦で作陽高の敗戦となった「幻のゴール事件」で注目され、その事件を契機として大きく成長。その後のプロ入り・日本代表でのワールドカップ出場・JリーグMVPという栄光へと繋がることとなる。
【中野和也の「熱闘サンフレッチェ日誌」】