(写真:フェンシングの西ドイツ代表として活躍したバッハ氏。モントリオール五輪では金メダルを獲得/アフロ)
「物心ついたときから、“父さんはあと、どれくらい生きていられるの?”という疑問がありました。ベッドのわきに酸素ボンベが常に置いてあって、夜に父が発作を起こすと、母がいつも酸素吸入させるのです。そして病院に行き、帰ってくる。こんな生活が、1968年に父が亡くなるまで続きました」
自らの幼少期をドイツの日刊紙「ビルト」にこう振り返っていたのは、IOCのトーマス・バッハ会長(67)だ。
新型コロナウイルスがふたたび猛威を振るい、多くの市民が反対するなか東京五輪を強行しようとしているバッハ氏。その金満ぶりや身勝手さから、“ぼったくり男爵”というあだ名がつけられたオリンピックの“ドン”の幼少期は、意外にも厳しく悲しいものだった。
1953年に西ドイツで生まれたバッハ氏は、ドイツ南部の都市、タウバービショフスハイムで育った。父のアンドレアスさんはソ連の捕虜収容所からの帰還者で、その影響で心臓を患っていて、物心ついたときはほとんど働けない状態だったという。実家は仕立て店を併設した小さな織物店で、母のマリアさんが必死に切り盛りしていた。バッハ氏は後に、家庭の経済状況を自ら「中の下のほう」と振り返っている。
両親はクリスチャンで、子供のころにはカトリック教会のミサで従者を務めたこともあるという。障がい者をからかうような行為が珍しくなかったという当時、「私がそういうことをしたら、両親はびっくりしたでしょう」とバッハ氏がいうように、弱者への優しさを持った父と母は、息子もそんなふうに育つことを願った。
バッハ氏の頑固さの片りんは当時からあったようだ。「退屈すぎるから」という理由で幼稚園を半日でやめてしまったのだ。幼稚園から昼ごろに帰宅すると、「僕に幼稚園は向いていない」と両親に言い放ち、二度と行かなかったという。このころから、バッハ氏は自分の“信念”を押し通すところがあった。
■名門大在学中に金メダル…“文武両道”なバッハ青年
6歳のころ、フェンシングと出会ったことがバッハ少年の運命を変えた。多くのドイツ少年と同じように最初はサッカーに熱中したが、近所にクラブがなく、“草サッカー”で毎日擦り傷だらけで帰宅する息子を見かねた両親のすすめで、フェンシングクラブに入ったという。
14歳のころ、ついに父が亡くなった。58歳だった。このときのことをバッハ氏はこう振り返っている。
「父の死によって、責任というものを私は意識することになりました。それから、私の母は、多くのことにおいて私の助言を求めるようになったんです」
父代わりに、慕うようになったのがフェンシングトレーナーのエミール・ベック氏だ。のちに西ドイツのナショナルチームのトレーナーにもなるベック氏のもとで、バッハ氏はフェンシングにますますのめり込んでいった。
バッハ氏の身長は171センチと、この競技の選手としては小柄だ。トップレベルでは成功しないと言われたこともあったが、激しい練習で培った優れた技術と知的な戦術、そして持ち前の負けん気の強さで頭角を現す。
西ドイツのナショナルチームの一員となると、1976年のモントリオール五輪のフルーレ団体で見事金メダルに輝いた。世界選手権でもフルーレ団体で、1つの金メダルを含む3つのメダルを獲得。西ドイツの国内選手権でも6つの金メダルを獲得している。
一流のアスリートであると同時に、バッハ氏はドイツの名門・ヴュルツブルク大学の学生。まさに、文武両道を地で行く理想的な青年となった。
■「父が早く亡くなったことは大きな痛手です」
だが、どうしても満たされない思いがあった。
「私が五輪で勝つのを父が見られなかったことだけではなく、父が早く亡くなってしまったことは大きな痛手になりました。父には、私への期待が現実になっていくところを見てもらいたかったんです」
前出の「ビルト」の取材にそう語っている。引退後に選んだスポーツ行政とビジネスの道では、欠けたものを埋めるように、権力とカネを集めることに残りの人生を捧げていく。バッハ氏のドイツでの評判を、ドイツ人の父と日本人の母を持つエッセイストのサンドラ・ヘフェリンさんがこう語る。
「アスリート時代の功績を覚えている人は少数です。どちらかというと、ビジネス界のやり手で、お金に汚ない、そんなイメージが強いような気がします。ドイツでの彼の評判はよくありません」
おそらく父が期待していたよりも、“巨大な何か”にはなったバッハ氏。スポーツ界の“頂点”を極め、その個人資産は400億円ともドイツでは報じられている。
バッハ氏の父は弱者を思いやる気持ちを持っていたという。そんな父が、遠い異国の地で、疫病に苦しむ人々を踏みつけて、自らの野望を達成しようとする息子の姿を見たとしたら、なんと言うだろうか。