真っ白な壁に囲まれたスタジオの一角に、細身の青年が膝を折ってしゃがみ込んでいる。濃茶のジャケットとパンツに身を包み、無精髭をたくわえた細面で、先ほどからカメラマンのリクエストに応えて首をかしげたり、顎を引いたりしている。ときに腕組みし、膝を抱えていた彼が立ち上がると、今度は周囲が見上げることになった。
スッと伸びた長身から、切れ長の両眼で送るカメラ目線は、トップモデルのルーティンのよう。それでいて……。
「最近食べたラーメン、ですか? 何だったかな……あぁ、『北極ラーメン』です。いちばん辛いメニューを『わ~、辛っ!』とかヒーヒー言いながら。あとは、六本木『天鳳』の味噌ラーメンをご飯と一緒にいただくのも好きですね」
手ぶりを交えてつぶやくような口ぶりがコミカルだ。そして時折、細い目をさらに細めてみせる、笑顔――。わずか数分のあいだにいろんな表情を“演じて”みせる。
俳優・柄本佑(34)。父は言わずと知れた個性派俳優の柄本明(72)で、母は、舞台をはじめ、ドラマ、映画と活躍した女優の角替和枝さん(享年64)。弟の時生(31)も売れっ子俳優で、姉も映画制作に携わっている映画一家だ。
そして佑が12年3月に結婚したのが女優の安藤サクラ(34)で、義父は俳優の奥田瑛二(70)、義姉は映画監督の安藤桃子(38)と、こちらもまさに映画一家。
もはや「二世俳優」というレッテルを貼られる余地がないほど、自身の個性を確立している佑は、ある部分ではすでに、父を超える魅力を放っているともいえる。
「いやいや、親父はずっと『師匠』です。会話というと、映画のこと、現場、役者のこと、いまだにそれくらいしかないですから。親父の存在は、怖くもあり、親父がいる安心感が、いまもあります」
父と母の“夫婦の会話”は映画や芝居の話ばかり。間柄も、家の中でも“座長と女優”のままのことがあったという。
「親父は稽古場で怒鳴ると、怒ったことの気まずさから、夫婦のあいだに子どもたちを呼び寄せることもしばしばあって。緩衝材になっていたんだと思います」
彼が「年間200本観る」映画少年になる下地はそうして形成された。
「親子の家族的な部分は和枝ちゃん任せだったと思います。テストで悪い点を取っても、和枝ちゃんに『怒って!』と言われてはじめて親父は“仕事”として怒った。親父は本質的には子どもに興味なかったように思うんです。俺も映画を観るようになって、ようやく少しは、会話できるようになりました」
しかし、映画界の門を叩くお膳立てをしたのは和枝さんだった。01年、中学2年生のとき、和枝さんのマネジャーが映画『美しい夏キリシマ』の選考に佑の書類を提出し、一次審査(書類)を通過。そこで和枝さんから「オーディションに行けば、生の監督に会えるよ」と誘われたのだ。
18年の本誌インタビューの際、父・明はこう振り返っていた。
「佑は当時、反抗期でした。俺も長期ロケで家を空けることも多く、カミさんが手を焼いていた。で、夏休みの2カ月間、主役の少年役で撮影現場に放り込んだんです。映画って縦社会で、周りは大人ばかり。寂しくて、ひとりの部屋で泣いて電話してきました。僕も尊敬する(故・原田)芳雄さんをはじめ、先輩方に『佑、佑!』と呼ばれて、もまれて、すっかり“いい子”になって帰ってきた」
そして父は、その撮影現場まで様子を見に行っていたのだと明かしてくれた、「みっともない親でね」とエクスキューズしながら。
それは、父性の不器用な“愛情表現”に他ならなかったのではないか、と佑に問うと……。
「そうかもしれないけれど、それを親父は直接、態度には出さないんですよね……」
しかし生前の和枝さんは、夫について《自分なりに子育てには熱心だよね。お弁当作ってくれたこともあるし》(『週刊朝日』15年3月6日号)と語っていた。
「えっ、親父が弁当も作っていたんですか? 知らなかった……。そういえば、このあいだ小学校の運動会の写真が出てきたんです。そこになぜか親父が写っていた。来ていたんですね……案外、ちゃんとやっていたかもしれない」
3歳の娘を持つ佑は、いま父親としての立場で慮る。
「子どもの記憶に残るという意味では、やはり母親の方が有利ですよね。親になってみて思うんですが、子がある程度の年齢にならないと、父親ができる『記憶に残ること』はほとんどないですから」
佑は前出の『美しい夏キリシマ』主演で、16歳で銀幕デビュー。同作で第77回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞、第13回日本映画批評家大賞新人賞を受賞している。
だが、その数年後、東京乾電池が企画する舞台に叔母の勧めで出るようになってからは、父と子は「師匠と弟子」の関係に突入したという。
「殴られたことこそ一回もないのは事実なんです。でも、なんていうんだろうな……。親父には、殴られるより怖いと思う瞬間があるんです」
初めて佑が「怒鳴られた」のは、19歳、新宿ゴールデン街劇場での公演後のことだった。
「客と仲良くしやがって! 客は敵なんだからな!」
父の怒声が肚まで響いた。
「幼いころの記憶で、稽古場でトマトを劇団員に投げつけていたのを覚えていますが、自分も怒鳴られるのは初めてでした。俺は『怖ええ』と思いながら固まっていた」
ところがそれは序の口だった。本格的な親父のカミナリは、時生との兄弟ユニット「ET×2」を始動させた08年から落とされる。
「公演中に1度は、必ず怒鳴られていました。稽古場より本番が始まってからのほうが怒鳴られる。客席との“なあなあ”な雰囲気が親父には許せないんですね」
だが、そんな「演出家・柄本明」の痺れる空気を体感できるのは、「ありがたいこと」と思っているようだ。17年の兄弟での公演『ゴドーを待ちながら』では、その父に演出を依頼しているのだ。
「お客さんやマスコミにどれだけ評価されようが、師匠なんで親父に『ダメだ』と言われたらゼロなんです。時生とは『怖いものがなきゃ、面白くならないよね』と。怖くもあり、安心感もあり……そうして親父が元気でいてくれるのは、ありがたいことですよ」
2月20日公開の映画『痛くない死に方』で、佑は主演俳優として、終末期の患者を看取ることに悩みながらも、人間的に成長していく若き在宅医・河田を演じている。現時点で、自身は“終活”についてどう捉えているのだろうか。そう問うと「う~ん」とひとつ置いた末、佑は意外な返答をした。
「……この役を演じ終えてはみたんですが、“終活”というものが、まだ“自分事”としては実感できないんですよね」
役になり切る作業の中で、終末医療や終活の文献に目を通したり、現場取材を重ねてきたはずである。現段階の持論、あるいは準備の状況などについて、具体的に言及してくれるものと予測していた。
しかし「実感できない」という言葉で佑はこちらの想定を打ち消し、別の角度から話し始めた。
「我々役者は、毎日スーツを着て通勤するわけではなく、仕事がないときは、1カ月半も白紙ということもザラです。社会のルールを感じづらい職業ですが、だからといって生活の機軸が危うくなってしまってはいけない。確かに映画好きが高じて、この世界にいられるのは嬉しいですが、素晴らしいことでも、素敵なことでも何でもない。特殊なことをしている意識ではなく『これは自分の仕事である』というスタンスで、向き合うようにしているんです」
そんな職業観を意識したのは、高校を卒業し、ひとり暮らしを始めた後のことだったと振り返る。
「学業がない上に、それこそ仕事が1月半もなくなっちゃったとき、『俺、なにしているんだろう?』と、足元がおぼつかない思いに襲われた。そのとき『生活をしっかりしなきゃ』と思ったんです」
万年床を畳み、汚れたままだった食器の山をキレイに洗った。
「ちゃんと生きていることが自分の本分となって、そこに生活があることが、社会と自分のつながりに思えた。『私生活をちゃんと維持すること』が、この仕事を続けるモチベーションになったんです。自分のなかの“発明”でした」
役柄に飲み込まれることなく、生活に機軸を置いて芝居をする。その信念をより堅固にしたのは、やはり安藤サクラとの結婚――のちに長女も誕生と、“所帯を持った”ことにあると、明確に言う。
「未来を見据えて“家族を持った”という覚悟でした。たとえば長編映画の監督という夢は将来的にありますが、職業としての俳優は、一生続けていくものだと思います。それで『役者やめるわ、俺』となって、家族を不安にさせることはできませんから。家族という船を漕ぐためのオールは、俳優業でなければいけないということです」
観る者の魂を揺さぶり、ときに人生をも左右しうる映画・演劇界の世代のトップランナー・柄本佑の、これが現在の境地である。
(取材・文:鈴木利宗/撮影:永田理恵/スタイリスト:林道雄/ヘアメイク:星野加奈子)
「女性自身」2021年2月16日号 掲載