前回のあらすじ
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→モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指したバボージャブ将軍の戦い【二】
時は20世紀初頭の光緒二十九1904年、清国に支配されていた南モンゴル(現:中国内モンゴル自治区)の青年・バボージャブ(巴布扎布。1875~1916)は、日露開戦に伴って募集された日本側の義勇組織「満洲義軍(まんしゅうぎぐん)」にスカウトされます。
既に家庭はあったものの、妻に「モンゴル族の誇りと独立を取り戻す戦いに参加せずして、何がチンギス=ハーンの末裔か」と促されて志願したバボージャブでしたが、与えられた任務は敵の後方攪乱など、華々しくない「脇役」ばかり。
義勇兵たちは不満を溜めて士気が下がり、規律も乱れ始めてしまったため、満洲義軍の呼びかけ人である花大人(ホァ・ターレン)こと花田仲之助(はなだ なかのすけ。日本陸軍の情報幹部)から、不満分子の説得を任されます。
「気持ちは解るが、今回は満洲人やモンゴル族にとって、独立を勝ち取るための戦いだ。小さなこだわりを捨てて力を合わせなければ、強大なロシア軍は倒せない……まぁ、暫くすれば、不慣れな土地で戦う日本軍は俺たちに協力を求めて来るさ」
満洲の荒野に生きて来た騎馬民族の誇りを胸に、バボージャブたちは一致団結。任務を遂行するのでした。
黒溝台の会戦、そして奉天の決戦で奇跡の逆転勝利
かくしてロシア軍の後方攪乱や糧道寸断に暴れ回ったバボージャブたちでしたが、その読み通り、日本陸軍は果敢に善戦していたものの、不慣れな土地でしばしば苦境に陥っていました。
光緒二十九1904年10月9日~20日の沙河(しゃか。遼寧省遼陽市)会戦以降、冬将軍の到来によって戦線は膠着。塹壕を掘ったその中で寒さに耐えながら戦機を窺う(実態は弾薬が底を尽き、手詰まりとなっていた)日本陸軍を横目に、満蒙出身の騎馬軍団は粛々と任務を遂行します。
「お前らダメだよ、そんなん(装備や工夫)じゃ寒さを凌げる訳がねぇだろ」
「後な、どこで馬術を習ったか知らないが、もっとリラックスした状態で操らなきゃ、人も馬も力を発揮できねぇ。最近流行りのヨーロッパ式は見栄えこそいいが、実戦向きじゃねぇし、何より俺たちアジア人の体格にも適してないんだ……」
塹壕に引き籠もってヒm……もとい中々巡って来ない戦機を窺い、時間を持て余していた日本陸軍に、誰がレクチャーを始めたかはともかく、騎馬民族の戦法や馬術に興味を示したのが、後年「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古(あきやま よしふる)陸軍少将。
バボージャブと直接の面識はなかったでしょうが、日本軍とモンゴル・満洲人は共に強敵ロシアを打倒するべく力を合わせて連携を強化していきました。
明けて光緒三十1905年1月1日、乃木希典(のぎ まれすけ)大将率いる日本軍の本隊が、難攻不落を誇った旅順要塞(りょじゅん。遼寧省大連市)をついに攻略、形勢は日本勝利に傾きます。
旅順の勝報に勢いを得たバボージャブたちは、1月25日~29日の黒溝台(こっこうだい)会戦において、ロシアの大軍に奇襲を受けながらもこれを撃退。そして運命の奉天(ほうてん)会戦では、2月21日から3月10日まで18日間にわたって日露の陸軍主力(ロシア軍約36万人に対して日本軍は約24万人)が激突しました。
「Монголчууд урт наслаарай(モンゴル族、万歳)!」
厳しい冬を乗り越えた日本軍はもちろん、モンゴル・満洲の馬賊も戦場を縦横無尽に駆け回り、ロシア軍に味方した精鋭コサック騎兵を相手に多大な犠牲を払いながらも1.5倍の兵力差を覆し、奇跡的な勝利を収めたのです。
日露戦争の勝利、満洲義軍は解散へ
……しかし、日本側の補給線は伸び切って肝心の物資は底を尽いており、これ以上の攻勢は不可能と判断した陸軍は奉天(現:遼寧省瀋陽)に留まってその防衛に努めました。
「後は、インド洋からやって来るバルチック艦隊を叩ければ勝てる……!」
日本海軍(連合艦隊司令長官・東郷平八郎ら)がその期待に応え、明治三十八1905年5月26日~27日にかけて対馬沖(いわゆる日本海海戦)で赫々たる戦果を上げた事績は、後世よく知られる通りです。
やがてアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが日露講和を促し、戦闘には勝利したものの、もはやボロボロになっていた日本と、まだまだ十分な継戦能力を温存していながら国内で起こった第一次ロシア革命への対応に追われるロシアの利害が一致。
かくして10月14日、日露両国がポーツマス条約(日露講和条約)を締結し、ここに日露戦争は終結したのでした。
「やった……俺たちの、黄色人種の勝利だ!」
「大日本帝国万歳!満洲万歳!モンゴル万歳!」
奉天で講和条約の締結を知ったバボージャブたちは、歓喜に沸き立ったことでしょう。
「これでロシアの支配下にあった満洲が解放される!この勢いで、清国の支配下にある南モンゴルも解放しよう!」
……しかし、講和の内容は南樺太(からふと)の割譲と朝鮮半島の権益承認、大連・旅順そして東清鉄道(旅順~長春間)の租借権を得たものの、賠償金は得られませんでした。
「あれだけの武勲を立てたのに、日本が朝鮮半島と満洲の一部にちょっと足がかりを作っただけなのか……」
かと言って、条件に不満だからと日本に戦争を継続する余力は残っておらず、渋々呑むよりありません……ない袖は振れぬ、となれば満足な恩賞もないまま、満洲義軍は解散を命じられました。
「皆さんの協力なくして、今回の勝利はあり得なかった。にもかかわらず、満足に報いることも出来ず申し訳ない……」
満洲義軍を率いてきた花大人は、バボージャブたちに自分で工面した僅かな報酬を配りながら、詫びるよりありません。
「いやぁ、花大人が悪い事ぁありませんや。また国力を蓄えて、次こそは満洲を、そしてモンゴルを解放しましょうや」
「そうでさぁ。花大人が一声かけてくれりゃあ、俺たち又いつでも集まりやすぜ……」
かくして、再び民族独立の旗下に結集できる日を願いながら満洲義軍は解散。バボージャブは家路を辿るのでした。
【続く】
※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文藝春秋、2014年11月
波多野勝『満蒙独立運動』PHP研究所、2001年2月
渡辺竜策『馬賊-日中戦争史の側面』中央公論新社、1964年4月