モンゴルと言えば、大相撲で活躍している外国人力士たちや、ユーラシア大陸を股にかけたモンゴル帝国の覇者チンギス=ハーンが有名ですが、国家が南北に分断されている現状については、あまり知られていないのではないでしょうか。
「モンゴルの北はロシア、南は中国でしょう?どこに分断されたモンゴルがあるの?」
……中国の地図を見ると、モンゴルとの国境に「内モンゴル(蒙古)自治区」という地名が広がっており、これこそモンゴル人にとっては「奪われた土地=南モンゴル」に他なりません。
※ちなみに「内」モンゴル自治区とは、中国から見てこっち(内)側という意味であり、現在のモンゴルは「外蒙古」と呼んでいますが、モンゴル人にしてみれば内も外もなく、どっちも我が国(モンゴル)だと言いたいところでしょう。
世界は常に弱肉強食、奪い奪われは世の習いですから、中国が悪いなどといった主張はナンセンスですが、どうしてこうなったのか、その事情を知っておくことは平和を守る上で大切な教訓となります。
また、モンゴル人もただ奪われたばかりではなく、多くの英雄たちがモンゴルの民族独立と南北統一を目指し、日本人とも連携して戦いに身を投じました。
今回はそんな英雄の一人であるバボージャブ将軍(1875~1916)のエピソードを紹介したいと思います。
清国に支配されていたモンゴル族の青年、日清戦争の勝利に希望を見出す
バボージャブ(巴布扎布)は清朝末期の光緒元1875年、内蒙古のジョソト(卓索図)盟トゥメト(土黙特)左翼旗、現在の中国遼寧省阜新市に生まれます。
19世紀末のモンゴル族は、かつての大帝国もすっかり影を潜めてその版図を縮小。北はロシア帝国、南は清朝に脅かされながら、南北両大国の緩衝地帯として命脈を保っている状態でした。
こと南モンゴル(内蒙古)は万里の長城を越えて清国から多数の農民が流入し、強引に農耕開拓を行ったため、すっかり砂漠化が進み、国土は荒れ果ててしまいます。
(※この地域は元々降水量が少なく、農耕には不向きでした。わずかに生育する草木を家畜に食べさせることで人間が摂取できる栄養源に変換する遊牧生活は、厳しい自然に生きるモンゴル人たちの知恵だったのです)
自然の恩恵を授かる遊牧生活を維持できなくなったのか、バボージャブが10歳になった光緒十1885年ごろ、一家は彰武県大冷営子(同市内)に移住。農業を手伝ったのか、あるいは都市部へ奉公に出たのか判りませんが、いずれにしても苦労が察せられます。
そんなバボージャブが19歳となる光緒十九1894年、清国が大日本帝国と称する東洋の島国と戦争を起こしました。
後世「日清戦争」と呼ばれたこの戦争で、アヘン戦争の敗北以来、欧米列強に領土を蚕食されつつもなお「眠れる獅子」と恐れられていた清国……それが東洋の小国・日本に敗れた事によって「眠っていたのは(=清国は)獅子ではなく、ただの肥った豚だった」と世界中に知れ渡る事となったのです。
近代日本にとって大きな一歩となった勝利ですが、これを喜んだのは日本人だけではありませんでした。
「もしかしたら……モンゴル族が独立を勝ち取れるかも知れない!」
これまでモンゴル族を支配していた清国は、絶対の存在ではないことを確信。そして幕末以来の近代化によって着実に国力を伸ばしている日本と連携すれば、民族独立の希望が見えてくる……バボージャブ青年は、大いに昂揚した事でしょう。
日露戦争勃発!花大人こと花田仲之助に見い出され、満洲義軍に参加を決意
そんな昂揚感の中で結婚したバボージャブは長男・ノンナイジャブ(濃乃扎布)と次男・ガンジョールジャブ(甘珠爾扎布)を授かり、貧しいながらも幸せな家庭を築き上げていた光緒二十九1904年、今度は日本がロシアと開戦したのでした。
「皇国の興廃はこの一戦にあり……」
後に日本海の決戦(対馬沖海戦。明治三十八1905年5月26~27日)に臨んだ日本の連合艦隊司令長官・東郷平八郎(とうごう へいはちろう)提督が、「もう後がない」と不退転の覚悟でZ旗を揚げたこの戦いは、誰の眼にも勝算なしと見られていました。
十年前の日清戦争では「眠っていたのは、獅子ではなくて豚だった」というオチがついたからどうにか勝てたものの、今度は冬眠明けの気が立ったヒグマ。何より15世紀の大航海時代からこの数百年、有色人種が白人国家に勝てた例(ためし)はありません。
「……だったらどうするんだ?このまま日本がロシアに敗れるに任せ、『やっぱり白人様には勝てないんだ』『俺たちモンゴル族は、未来永劫ロシアと清国の奴隷でいるしかないんだ』って、いじけた人生をただ引き延ばし、惨めに命を永らえるのか……?」
否、否……断じて否だ!……ついにバボージャブ青年は立ち上がりました。ここで日本を見捨てたら、俺たちモンゴル族は、いや黄色人種は、ずっと大国のエゴに虐げられたままだ!
そんなモンゴル族たちの熱い思いと民族独立の野望を知っていた日本側は、「花大人(ホァ・ターレン)」のあだ名で大陸民衆に親しまれていた陸軍の情報幹部・花田仲之助(はなだ なかのすけ)予備少佐を派遣します。
「満蒙(まんもう。満洲&モンゴル)人を組織して、ロシア軍を後方から攪乱せよ」
「了解しました」
特命を受けた仲之助は、さっそく「満洲義軍(まんしゅうぎぐん)」を結成、各地で義勇兵を募ります(もちろん、清国およびロシアの支配下ですから、大っぴらには出来ません)。
「……バボージャブさんですね……今夜20:00、町はずれの酒場までお越し下さい……」
何だかスパイ映画のような展開にワクワクしながらバボージャブが行ってみると、そこにはあの「花大人」が、例によって胡散臭いオーラを発しつつ、怪しげな男たちと談笑していました。
「……お待ちしておりました、バボージャブ先生……」
「そんな勿体ない……私など小巴(シャオバ)で十分ですよ……」
さっそく本題に入った仲之助は、モンゴル族の栄光を賞揚しながら、彼らの置かれた理不尽な現状に義憤を表わし、ロシア・清国からの軛(くびき)より解き放たるべきと訴えました。
(※仲之助は以前、僧侶に扮して各地を説法行脚しながら情報収集の任務に当たった経験があり、話術に巧みだったそうです)
「……そこでバボージャブ殿のお力を借りたいのです。馬の上で生まれ育った、偉大なるチンギス=ハーンの末裔であるあなたの力が……」
モンゴル族の誇りをこれでもかと刺激し、永年抱え込んできた鬱屈を心底理解してくれた。そして自分たちの可能性に、ここまで期待してくれている……すっかり花大人に魅了され、喜びに打ち震えるバボージャブが首を縦に振らない理由はありませんでした。
【続く】
※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文藝春秋、2014年11月
波多野勝『満蒙独立運動』PHP研究所、2001年2月
渡辺竜策『馬賊-日中戦争史の側面』中央公論新社、1964年4月