前回に引き続き、江戸の浮世絵師・鈴木春信の「風俗四季哥仙」から今回は3月の「風俗四季哥仙 弥生」をご紹介します。
1月については“風俗四季哥仙 立春”を、2月については“風俗四季哥仙 竹間鶯・二月”を、3月については“風俗四季哥仙 三月”をご覧下さい。
風俗四季哥仙 弥生
2月に同じく、3月にも2つの“風俗四季哥仙”があります。一つは前回ご紹介した「風俗四季哥仙 三月」そして今回の「風俗四季哥仙 弥生」です。
“弥生”は和風月名であり、日本人の四季に関する感受性の豊かさを表しています。もともとは「草木弥生月」と呼ばれていました。「弥」という文字には“ますます”という意味があり、“草木がますます生え盛る月”という意味合いでした。
では今回ご紹介する「風俗四季哥仙 弥生」に記されている歌をみてみましょう。
けふといえば 岩間によとむ 盃を またぬそらさへ 花にゑふらん
六百番歌合:春149
(意訳)今日ばかりは岩間の流れに淀む盃が、溢れるのも待たず空さえも花に酔っているようだ
この和歌の出典元である“六百番歌合”とは、数ある歌合わせの中でも伝説的な歌合わせと言われています。六百番という規模自体が前代未聞であり、特筆すべきはこの歌合わせは歌道の名家“六条家”と、新興の“御子左家”という、歌壇の二大勢力の戦いの場であったことです。
万葉の昔から、高貴な人々の間では和歌のやり取りができなければ恋もできません。そのように教養を問われる和歌の出来不出来を競うのですから、これは真剣勝負の場でした。
この“歌合”には有名な事件がありました。「枯野」題をもとに左右に分かれて和歌を読んだ際に、右方の歌人が左方の歌の「草の原」という表現について、古臭いと評したところ、判者の藤原俊成の怒りに触れました。
俊成は『(“草の原”といえば源氏物語にあるだろう)源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり』(源氏物語を知らない歌人とは残念なことだ)と判じたのです。
この“六百番歌合”は鎌倉時代・建久3年(1192)に企画・出題され、翌4年秋に披露・評定されました。
和歌に長けた鈴木春信が、この“六百番歌合”のことを知らないはずはなく、“弥生”を表現するのに“曲水の宴”を詠った上記の歌を選んだと思われます。
曲水の宴とは
“曲水の宴”とは紀元前の中国を発祥とし、もとは“上巳”と呼ばれる五節句の一つ、旧暦の3月3日に水辺のそばで禊をする習慣でした。
時を経て、その習慣は“禊”とともに盃を水に流すという宴に変化していきました。この3月3日は桃の花が咲く時期であることから“桃の節句”とも呼ばれています。
曲水の宴が日本で初めて行われたのは、「日本書紀」によると485年3月に顕宗天皇の主催により宮廷内において行われたことが記されています。
曲水の宴は、ゆるやかに流れる小川のほとりで出席者がそれぞれの座につき、その日の歌題を確認します。
舞台では白拍子の舞が舞われて、琴の音が流れる中、童子たちが盃にお神酒を注ぎ、盃台に乗せて小川に流します。
出席者たちはそれぞれ課題にちなんだ和歌を短冊に詠みしるして、その後、流れてきた盃を取り上げお神酒を飲むという雅な宴でした。
この作法についてはもう一つあり、盃が流れてくるまでに和歌を詠めないと、盃のお神酒を飲まなければならないというものです。これは主催者や、宴の趣向に合わせて変えていたのかもしれません。
お酒が飲みたいがためにわざと和歌を詠まずに盃のお神酒を飲んだ人もいた、という話もあります。いつの時代もそんなお茶目(?)な人はいるものですね。
ひな祭り
日本では“桃の節句”と言えば「ひな祭り」を連想しますが、日本の“ひな祭り”の起源は諸説あり、平安時代の京の都では貴族の子女が“雅ひな”で遊んだという記録があります。
“遊びごと”であったものが、やがて“上巳の節句”=“穢れ払い”という意味合いから、雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」とされるようになりました。流し雛というひな人形を川に流す行事がある地方もあり“上巳の節句”の影響を受けているとも考えられます。
桃の花が飾られるのも、桃の木は沢山の実をつけることから多福をもたらすとも言われています。また桃の実も厄除けや健康長寿を意味し、古くから日本でも親しまれてきました。
次回の後編に続きます。