悩み抜いた末 FA残留
6年契約最終年の2008年オフ。残り長くない野球人生の岐路に立っていた三浦大輔は「渦中の人」となった。11月17日、当時34歳の右腕は「年齢的に他球団の話を聞けるのはこれが最後。後悔したくなかった」とフリーエージェント(FA)権を行使した。
FA宣言直後に獲得へ名乗りを上げた阪神と交渉に臨んだが、「強いチームを倒すのが三浦大輔の原点。横浜で優勝したい」とチームにとどまった。しかし、球団の顔であり続けた「ハマの番長」の流出危機に、ファンは大いに気をもんだ。義理堅い男だけになおさらだった。
シーズン最終盤の10月上旬。その動向にさまざまな臆測が飛んでいた三浦に、他球団移籍への思いを直撃した。口を閉ざす三浦が最後に「好きに書いたらええよ」と、わずかに口元を緩めたのをよく覚えている。真意は定かではなかったが、少なくともこの時点から「横浜残留」ありきではなかった。
交渉中一貫して口にし続けたのは「金額だけの条件ではない」という言葉だった。一方で、どこに重きを置くかという問いに「それは言えない」とも。何かを背負っているようにも映った。
このシーズンは、石井琢朗(現広島打撃コーチ)や鈴木尚典(現横浜DeNA球団職員)といった、1998年の日本一に貢献したベテラン勢が、相次いで横浜のユニホームを脱いだ節目にも重なった。
だが、当時の球団フロントが功労者たちへ突き付けたまさかの「戦力外通告」に誰しもが絶句した。同じV戦士として歓喜を分かち合った三浦にとっても、胸中穏やかでなかったはずだ。表立って批判しない右腕が「この球団には問題がたくさんある」と吐露したのには意味があった。
いま思えば、FA宣言に踏み切った自らの言動で、球団の在り方を問いただすきっかけにしたかったのかもしれない。真相は三浦の心の中にだけ残るが、野球人生で最も悩み抜いた1カ月だったに違いない。
(2007~09年担当・織田 匠)
外部リンク