再び宙に舞う姿見せて
出会ってから、かれこれ13年がたった。それでも最初に名刺を渡した、あの日を忘れたことはない。2004年春。入社したての若造に対し、既に横浜の顔となっていた三浦大輔は「困ったことがあればいつでも連絡してこいよ。これからよろしくな」と優しい笑顔を向けてくれた。
これまでの記者人生、初対面にもかかわらずプロ選手に電話番号を教えてもらったのは、この一度きり。11桁のその数字は怒鳴られっぱなしだった若い自分にとって心の支えだった。
06年12月にベイスターズ担当を離れる際に頂いたサインには「何事にも全力で!!」の言葉があった。それは現役25年間を懸命にプレーし続けてきた三浦自身の生きざまそのものだったという気がしている。
練習前に球場のグラウンドやスタンドの階段を黙々と走り込み、キャッチボールの1球も大事にして勝利のために心血を注ぐ。そんな姿勢は球団の垣根を越え、多くの選手が取り入れていた。積み上げた172勝だけでなく、無形の財産として今も広く残っている。
ファンサービスの徹底ぶりにも頭が下がる。長蛇の列を作るファンに丁寧に応じ、サインする姿は2月の沖縄キャンプの風物詩となった。
04年から始めた、子どもたちを対象にした「グローブプレゼント」も今季までに約4800個を数えたと聞く。「親や友達とキャッチボールしてほしい」との願いを込め、一つ一つにサインペンを走らせていた。
ファンのみならず、周囲への気遣いも忘れなかった。ブルペン捕手ら裏方さんにグラブを贈り、ことし4月に起きた熊本地震の際には当時妊娠中だった知人から相談を受け、支援物資を送った。被災した子育て中の保護者向けに、乳児の下着やレトルトの離乳食、粉ミルクなどを4トントラックに詰められるだけ詰めた。
髪型はど派手なのにこういうところはなぜか奥ゆかしい。「そんなんは別にいいんだよ」と笑い、雑談以外はあくまで野球の話に徹した。酒は飲まず、たばこも昔にやめた。ハマの番長は真面目だった。
9月20日の引退会見が終わった後、思いをこらえきれず「まだやれますよ」と訴えてしまった。リーゼントの下に浮かんだのは、あの日と変わらない朗らかな笑みだった。
「25年間、お疲れさまでした」とは言えない。「(もう一度)優勝するまで辞めないよ」と語っていた約束を果たせなかったのだから。誰もが期待する近い未来、その背中が宙に舞う姿を見るまで、「お疲れさまでした」の言葉はしまっておきたい。
(2004~06、15~16年担当・小林 剛、16年12月神奈川新聞掲載)
=おわり
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