アスペルガー症候群をはじめとする障害や特性によって、夫と心が通い合わず「カサンドラ症候群」に陥る妻たち。悲痛な声に耳を傾けることが、彼女たちの回復の一助となるはずだ。
* * *
ドタドタドタ。
部屋の隅から走ってきた2歳の息子が視界に入った瞬間、リビングに横たわっていた女性(32)は、顔面に強い衝撃を受けた。口からボタボタ血が滴っている。前歯が折れたようだ。息子にけがはないが、大声で泣いている。
しかし、夫は視線をテレビに向けたまま微動だにしない。日曜の夜9時。女性が救急外来のある病院を探し、電話し始めると、テレビはCMに切り替わった。ようやく夫が「何やってるの」と振り返る。だが、動じる様子はない。女性はひとり病院に向かい、応急処置をしてもらって深夜2時に帰宅した。その間一切連絡なし。そして翌朝、夫は開口一番、こう言った。
「どこの病院に行ったの? タクシー代は5千円くらい?」
なんで私のけがのことよりタクシー代なの? 言い返す気力さえ失った女性に、夫は続けた。
「歯ってもう生えてこないの?治療しないとダメなの?」
心が折れた。
何事にもポジティブで決断力がある──。それが出会った頃の夫だった。クヨクヨしがちな自分と対照的なところに惹かれた。話しかけても生返事で、会話が成立しにくいことはあったが、夫の言動への違和感が強くなったのは妊娠してからだ。つわりなのに無理やり食事に連れ出し、「食べられないの?」と不機嫌になった。陣痛の最中、腰をさすってと頼むと、スマホでゲームをしながら無言で片手を動かすだけ。退院の日にささいなことで言い合いになると、「もう君のことは好きじゃない。赤ん坊はひきとって」と背を向けた。
その後、子どもをかわいがってくれるようにはなったが、お風呂を頼んでも「俺は外で働いているのに。君は子どもと家にいるだけだろ」と迷惑がる。夫にとって私は何なのだろう──。
どんどん気持ちが沈む中、ネットで見つけた「アスペルガー症候群」の記述にくぎ付けになった。特性の「共感性や情緒的な反応の乏しさ」が夫にぴたりと当てはまる。「自閉症スペクトラム(ASD)」の一種で、知能や言語能力に遅れがないため、気づかれないまま大人になっていることが多いと書かれていた。
女性は実家の両親に打ち明けた。だが、返ってきたのは「男なんてみんなそんなものよ」というセリフ。ああ、わかってもらえないんだ。私が求めすぎているの? 悪いのは私?
「ぐるぐると同じことばかり考えて、ご飯を作るのも外出もおっくうになっていきました。最初は『疲れた』と独り言を言っていたのが、『消えたい』に変わって、気づくと『死にたい』になって……」(女性)
歯が折れた事件の翌朝、このままでは自分が壊れてしまうと考えた女性は、息子を連れ、寄り付かなくなっていた実家に避難した。数日後、「カサンドラとその回復のために」と題する講演会が横浜であることを知った。登壇者は『旦那(アキラ)さんはアスペルガー』(コスミック出版)シリーズで知られる漫画家の野波ツナさん。11月、すがる思いで会場に向かった。
カサンドラ症候群とは、「共感性の欠如」という特性を持った人のパートナーに生じる身体的・精神的苦痛のこと。診断名がつくほどの社会的不適応は認められない「アスペルガータイプ」にもその特性はみられる。アスペルガー症候群の発症率は女性より男性が高いとされるため、必然的にアスペルガー特性を持つ夫とカサンドラ妻の組み合わせが多くなる。彼女たちは夫と心を通い合わせられない孤独と、周囲に理解してもらえない二重の孤独に苦しみ、片頭痛や抑うつ、パニック障害などさまざまな症状が出る。その苦悩と脱出の過程を赤裸々に描いた野波さんの作品はカサンドラたちの「バイブル」だ。
臨床心理士で、夫婦関係と発達障害が専門の青山こころの相談室代表の滝口のぞみさんは言う。
「カサンドラ症候群はここ5年ほどでかなり知られるようになりました。当初は、長年の苦しみの原因はこれだったのかと気づいた50、60代の妻たちが相談に殺到しましたが、最近は若い女性やカップル、男性からの相談も増えています」
「共感性の欠如」とは、「わかるわかる」と同意してくれないだけなのか。「性格の不一致」や「価値観の相違」と何が違うのか。滝口さんは「幅はあるものの、想定を超えた極端さや悪意のない冷淡さがアスペルガーの特徴」と言う。
それが深く妻の心を傷つけるのは、出産、育児や近親者の死などに関わる時だ。つわりで苦しむ妻に「そんなにつらいなら堕ろしてもいいよ」と言い放った夫。野波さんの夫は陣痛を訴える妻に「このゲームをクリアするまで待って」と真顔で言った。
イギリス人男性と留学先で知り合い、国際結婚した研究者の女性(53)はこうこぼす。
「夫の母が亡くなり、イギリスでの葬儀に行きたいと娘が言うと、夫は『来なくていい。もうただの死体だから』と」
(編集部・石臥薫子)
※AERA 2019年12月23日号より抜粋
【教育のプロが語る“コロナ離婚”の意外な原因 「子育ての軸」を持たない夫婦は弱い】
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