皇嗣妃となって2年目を迎え、誕生日にあたり記者会の質問に答えた文書に、秋篠宮妃紀子さまの変化が見て取れた。文字数は昨年の倍以上。ご自身の言葉で率直に思いや行動を語る姿に、強い意志を感じずにはいられない。AERA 2020年10月5日号から。
「8割おじさん」のはち切れそうなシャツから妻が感じたサイン
* * *
唐突で恐縮だが、鎌倉芳太郎(よしたろう)という人を紹介する。
1898(明治31)年、香川県生まれ。東京美術学校卒業後、沖縄県女子師範学校に美術教師として赴任。沖縄文化に魅了され、1924(大正13)年から1年間、東京帝国大学教授と共同で沖縄を調査、文化財や建築物、工芸品などを写真撮影した。後に紅型(びんがた)の染色家になり、73(昭和48)年、人間国宝に認定される。83年没。
文化庁の文化遺産データベースによれば、鎌倉氏が沖縄で撮った写真は「それ自体十分高い芸術性と資料性とを併せもった作品」で、首里城も含まれていた。戦火で焼失した首里城を92(平成4)年に復元した時の設計図面は、それが基になった。
以上は全て、ごく最近仕入れた知識だ。正確には9月11日、秋篠宮妃紀子さまの54歳の誕生日。この日、記者会の質問に答えた文書が発表され、そこに鎌倉氏の名前があったのだ。
1年間を振り返っての感想を求められ、紀子さまはまず、「即位礼正殿の儀」など一連の皇室行事を振り返り、次にラグビーW杯、そして昨年12月に訪問した沖縄を取り上げた。10月31日に首里城が焼失してから1カ月余りの訪問で、沖縄県立芸術大学から首里城方面を静かに望んだとした後、こう続けた。
「歴史的な建造物の修復と再建、貴重な美術工芸品の収集、復元や保存にむけて、今も励ましや支援が寄せられています。私もこうした取り組みに共感しつつ、沖縄文化研究者で紅型の染色家でもあり、首里城の再建に貢献した鎌倉芳太郎氏についての本や資料を再び読み返しました」
この一文に、すごく驚いた。訪問したという事実だけでなく、具体的な人物名をあげ、そこから自分のとった行動を明かしていたからだ。そして、こう思った。それはつまり、紀子さまの「実力」と「自信」の表れだ、と。
おおげさだと感じる方もいるかもしれない。そんな方のために、昨年の誕生日の文書を紹介する。
■具体的に思いを語る
昨年は今年同様の皇嗣妃としての活動を振り返っての感想、加えて今後の抱負を聞かれた。それに対し紀子さまはまず、上皇、上皇后両陛下への感謝を述べた。次にこれまでの活動を支えてくれた人らへの感謝。それから令和になって新たに出席した会三つとポーランド、フィンランドへの公式訪問をあげ、こう述べた。「私にとりまして学ぶことが多く、新たな人々と出会う貴重な機会にもなり、感謝しながら務めました」
ほとんどが「感謝」で、「感想」はあまりない。それが1年経って、鎌倉芳太郎氏の名前をあげるまでになった。己を出す紀子さまがうれしく、「実力」と「自信」を見て取った。
実は紀子さまが誕生日に文書回答をするようになったのは、昨年からだ。皇嗣妃という立場になったからで、それまでは秋篠宮さまの誕生日会見に同席するだけだった。
それが、2年目にして大きく変わった。全部で2千文字にもいかなかった回答が大きく増え、今年は約5千文字になった。より具体的に、自分の思いを語るようになったから増えた。その典型が、先ほどから紹介している沖縄。そこにあった「共感」という言葉も、昨年にはないものだった。
翻って上皇さまは、皇太子時代から沖縄に心を寄せ続けている。「忘れてはならない四つの日」の一つは、沖縄戦が終わった6月23日。美智子さまと共に11回、沖縄を訪ねている。その心を子どもの頃から受け継いだ秋篠宮さま。結婚から7年、紀子さまは1997年の歌会始(お題は「姿」)でこう詠んでいる。
<染織にひたすら励む首里びとの姿かがやく夏の木かげに>
皇室に入って以来、紀子さまはずっと沖縄に心を寄せ、学び続けてきたに違いない。だが「実力」と「自信」を示したのは、長く取り組んでいた沖縄だけに限ったことではないのだ。
感想の中で多くの字数が割かれたのは、コロナ禍のオンライン交流についてだった。専門家から話を聞いたり、全国高等学校総合文化祭を視聴したりといった体験を語り、オンラインがコミュニケーションを広げる可能性も述べた。と同時に、情報通信機器を使うことが困難な人がいることにも触れていた。
言葉こそ使っていないが、情報格差が生じていることへの言及とも読める。世の中を見る目の広さと深さが感じられ、それを表明できるのも「自信」があるからこそだと思った。(コラムニスト・矢部万紀子)
※AERA 2020年10月5日号より抜粋
外部リンク